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2016年10月7日金曜日

Simone de Beauvoir: Tout compte fait


2016年9月23日読了
著者:Simone de Beauvoir
評価:★★★★☆
刊行:1972年

Mémoires d'une jeune fille rangéeから始まるシモーヌ・ド・ボーボワールの一連の自伝の最終巻。このあとにもサルトルの死を扱ったLa Cérémonie des adieuxが1981年に刊行されており、これも自伝の一部とみなすことができる。しかし、母親の死を扱ったUne mort très douceと並び、La Cérémonie des adieuxはいわば外伝であり、正式な自伝は Tout compte faitをもって締めくくられる。 表題どおり「すべて語り終えた」わけだ(日本語版のタイトルは『決算のとき』)。外伝も含め、これで彼女の自伝を全巻読んだ。

本書は前作のLa Force des chosesをふまえ、1963年ごろから1971年ごろまでを扱う。つまりはサルトルとボーボワールの人気が最高潮に達し、彼らの影響力が最大になった時期だ。叙述は時系列ではなく、テーマ別になっている。この間の自身の著作、読んだ本、観た演劇や映画、聴いた音楽、国内や国外の旅行、アルジェリア、ソ連、中国、チェコ、中東、ベトナム(米国の戦争犯罪を裁くラッセルの国際法廷への参加を含む)などの海外の出来事、フェミニズム、国内政治、とりわけ68年の学生運動などがそれぞれ章別に語られる。

海外旅行に関してはサルトルに同行した1966年秋の日本への旅行にも一章が割かれており、興味深い。これは日本の出版社と慶応大学に招待された講演旅行で、東京、京都、広島、長崎などを訪れている。京都にはかなり多くのページが費やされているのに対し、大阪はNous avon passé un après-midi à Osaka. Nous y avons vu un quartier populeau où beaucoup de visages nous ont semblé moroses.(私たちは大阪で午後を過ごした。人通りの多い界隈に出かけたが、そこでの人々の表情は陰鬱そうだった)とたった2行でかたづけられている。この観察は大阪にとってちょっと酷ではなかろうか。

歌舞伎にはあまり関心を示していない一方、能と文楽を高く評価している。能や文楽が創り出す「別世界」(autre monde)で表現される感情の深さとリアリティがその理由だ。「本当に死体であるような死体を劇場で見たのは初めてだ」という感想もある。

ボーボワールは旅行に先立ち、行き先となる国を徹底的に調べている。日本についても同様で、フランス語と英語で書かれた膨大な量の資料にあたっている。そうしたなかから谷崎潤一郎にも関心を持ち、京都に住んでいる谷崎未亡人と会ったりもしている。こうした徹底した勉強は優等生の彼女らしいところといえよう。ネットで2、3時間だけざっと調べてから未知の国に旅立つ私とは大きな違いだ。比較にもならない。

サルトルとボーボワールのカップルはソ連とは徐々に距離置くようになる。1968年のソ連軍のチェコ侵入はその乖離を決定的にする。他方、中国への関心は増し、文化大革命への共感も示されている。ボーボワールの名誉のために加えておくと、この共感は没批判的で全面的なものではなく、深いところでの懐疑と危惧も表明されている。

60年代後半に発生した学生反乱には、サルトルもボーボワールも積極的にコミットしていき、非合法化された彼らの機関誌の販売を助ける活動もしている。

文化大革命も学生運動もあの当時の「時の流れ」だった。「存在非拘束性」というのは確かサルトルの言葉だったように思う。「自由」は実存主義の真髄だが、その自由も社会や歴史の条件から拘束された存在としての自由であり、そうした条件に立ち向かう自由でしかない。自立と自由をなによりも重んじていた彼らも、時の流れから完全に解き放たれていたわけではななかった。ソ連の崩壊、中国の国家資本主義化の今日まで彼らが生きていたら、どう考え、どう反応するだろうか。

この最終巻は前作のような「理論的」な部分が少なく、比較的読みやすかった。随所に鋭い観察や興味深い記述もあり、ページを読み進めていくのが楽しみだった。

時代にもまれつつも、最後まで自分で考え、自分の意志で生きようとした女性の人生は今でも色あせない。

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