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2025年2月26日水曜日

南半球一周ピースボートの旅(その13)

 2月13日

午前中は天候が悪く、甲板に出られなかった。

2月14日

GETプログラムのレッスンをうっかりして逃してしまった。

2月15日

午後、8階で読書しながら、ピザとビール(アサヒ・スーパードライ)で口をうるおした。ピザは無料だが、ビールは780円(プラス15%のサービス料)。

ピザとビール

2月16日

朝、甲板を4周。日ごとに暖かくなっている。

2月17日

今日も甲板を4周。 昼食後におにぎり1個(無料)。今日も食べ過ぎだ。

2月18日

早朝にイースター島に到着。イースター島には大型船が接岸する設備はない。このため、ピースボートは沖合いに碇泊する。ここに3日間滞在し、この間に乗客を小分けして島に上陸させる。

私の上陸予定日は2日目の19日であり、今日は碇泊している船の中で1日を過ごした。

2月19日

10時半ごろに90名ほどのグループで 沖合いのピースボートからイースター島までピースボート附属の小舟で渡る。こうした小舟をTender Boatというらしい。

小型バスに分乗し、約30分でアフ・トンガリキに立つ15体のモアイ像に到着した。

モアイ像

モアイ像群を一周して写真撮影に時間を割いたあと、さらにバスでモアイの製造現場でもあった岩の切り出し場(ラノ・ララク山)に向かう。

山には、いくつもの立っているモアイ像や横たわっているモアイ像が見られる。その間を観光客が一列に並んで進む。

ラノ・ララク

それほど急坂ではないが、山道の登り降りはやっかいだ。ナミビアで転倒した我が身、特に下り道には注意した。

再びテンダー・ボートでピースボートに戻ったのは午後3時前。14階のビュッフェ式のレストランで遅めの昼食をとった。

モアイ像よりも、転倒することなく無事に観光を終えたことに感慨が深かった。

2月20日

船は今日もイースター島の沖合いにとどまっている。船内でのイベントは皆無で、すでに観光を終えた私たちに何もすることがない。

4時過ぎには乗客の全員がイースター島観光を終了し、船は次の寄港地のタヒチに向けて出航した。出港に先立ち、船はイースター島を一周した。乗客向けのサービスだ。

イースター島を一周


2月21日

今日から通常の洋上生活に戻る。

2月22日

朝、甲板を4周(約2km)。 

昨夜から上の前歯が1本かすかにぐらつき始めた。旅の終わりまで保てばよいが、むずかしいだろう。

2月23日

今日も甲板を4周。

夕食は14階のビュッフェ式レストランで福井県在住の3人の会食となった。

2月24日

今日も甲板を4周。読書が思うように進まない。

2月25日

甲板を4周。朝食は14階のビュッフェ式で済ます。

昼食時、香港から乗船した女性と一緒になる。中国語の教師を辞してこの船に乗ったという。教室内で思ったことを言えなくなったのも辞職の理由とか。

船は次の寄港地のタヒチを目指して静かに進む。

2025年2月13日木曜日

南半球一周ピースボートの旅(その12)

 2月7日

船は午前7時ごろにプンタアレナスに接岸した。

今日はモンテビデオで一緒だったI氏と行動を共にすることを約束していた。

9時前に2人で船を降り、シャトルバスで町の中心部アルマス広場まで行く。

マゼランの銅像があるアルマス広場から展望台(Cerro de la Crus)まではすぐそこだ。展望台からはプンタアレナスを一望できる。

マゼラン像と一緒に

展望台からプンタアレナスを一望

展望台をあとにして、町を散策する。理髪店が見つかったので「現地での散髪」を実行することに。17ドルと、旅行先での散髪の代金としてはこれまでの最高の値段だが、船内でカットするのに比べれば格段に安い。

チリで髪を切る

行こうとした博物館が閉まっていたことなどもあり、プンタアレナスを歩きまわるにした。船上生活の余波か、地上を歩いているときにも足がふらつく。

1時過ぎにレストランに入る。見かけは小さなレストランだが、奥行きがあり、2階に上がることもでき、大勢の客でにぎわっていた。観光客は我々2人だけで、あとはすべて地元の客だ。

店員とのままならぬコミュニケーションに苦労しながらも、なんとかサーモンをメインディッシュとするコース料理とビールを注文する。

サーモンはおいしかったが、なにぶんにも量が多く、やっとの思いで最後まで食べきった。

サーモンで昼食

食後さらに歩いて町を探訪。5時前にシャトルバスで帰船した。

2万歩以上歩いてへとへとになりながらも、道行く人やレストランの店員の親切さに触れ、チリでの1日目を好印象で終えることができた。

2月8日

ツアーもあと1ヶ月を残すだけ。旅の後半に入った。夕食のレストランをこれまでの6階から5階に変更する。

2月9日

今日はめずらしく朝から雨模様。甲板でのウォーキングはとりやめ。

夜8時から「国際問題を英語で話す」というイベントがあり参加。GETプログラムのSaraが主催するイベントで、日本人3人、香港のカップル、台湾人1人が参加した。

2月10日

朝から雨模様で、揺れが激しい。早朝に5階に漏水があり、船のスタッフ全員で対処していた。各部屋のクリーニングは中止ということだったが、私の部屋は掃除されていた。

午後になって、雨は止み、日差しがさしてきたが、波はまだ高かった。

2月11日

晴れ。久しぶりに甲板を3周する(1.5km)。

昼食時、ハーフらしき風貌の若い女性と同席になる。「大学生か」と尋ねると、なんと中学生とのこと。米国(シアトル)生まれの米国育ち、パスポートも米国だが、日本のおばあさんと一緒に乗船しているという。

夕食は日本訪問歴16回、演歌大好きの45歳の台湾人と一緒だった。

2月12日

船は7時前にチリ第2の都市、バルパライソに着岸した。

バルパライソ着岸

今日は終日ひとりで行動するつもりだ。

9時半ごろに下船し、シャトルバスと電車を使ってソトマヨール広場まで出る。ここはバルパライソの中心部で、エレベーター(アサンソール)を使えば、街を一望する丘に登ることができる。

電車を降りてうろうろしていると、「ツーリストか」とスペイン語で尋ねてくる男性がいる。5~60歳代か。柔和で、人の良さそうな男性だ。

「アサンソールを探している」と言うと、「一緒に行こう」と案内してくれる。

あとでチップをねだられるのではないか、どこか怪しげな場所に連れて行かれるのではないかという疑念が頭をよぎるが、そのまま男性についていく。

杞憂だった。5分余りでアサンソールに到着し 笑顔で別れた。3台あるアサンソールのうちメインとなるアサンソール・コンセプシオンだ。

この丘は眺望がすばらしいだけではなく、家々にはさまざまな壁画が描かれ、全体がストリート・アートを形成している。

数多い観光客のなか、ピースボートとおぼしき人たちもかなり見かけた。

丘の上を歩く

丘から下りるときにはアサンソールを使わず、坂道をたどった。下へ下へと歩いているうち、気づけば平地にたどりついていたというほうが正確だろう。

時刻は1時近くなっている。レストランを探して中心街からちょっと離れた方向に足を踏み出すと、近くのレストランで呼び込みをしていた女性が私を追いかけてくる。

女性は両手でバツ印をつくり、「danger」という単語を口にする。この先は危険なエリアだという意味だろう。忠告したがって引き返した。

そして選んだのが、ちょっと大きめのレストラン。地元の客で賑わっている。

英語のメニューはなく、ウェイトレスはスペイン語の一点張り。なんとかビーフとビールを注文した。

予想した通り、ボリュームたっぷりの料理が出てきた。付け合わせのポテト・フライの量が半端ない。肉は硬かった。ナイフでカットするのが容易でない。こんなことなら、魚か鶏肉を注文しておけばよかった。料金は2400円ほど。

あとでグーグルマップで調べると、かなり評判のよいレストランで、きびきび働く店員たちも感じがよかった。ただ肝心の肉が硬かったことから、私の評価は60点といったところ。

このレストランで

この料理

食後、スーパーで乳飲料やお菓子を購入し、電車とシャトルバスを使って4時過ぎに帰船した。揺れる船での生活の余波か、陸地でも足がふらついた。さすがに疲れた。次の寄港地のイースター島まで5日間の洋上生活が続く。

2025年2月7日金曜日

南半球一周ピースボートの旅(その11)

 1月29日

今日は旧正月(春節)。関連するイベントがいくつかあった。ユンノリや書道などの文化体験コーナーに加え、春節ファッションショーも催された。春節の雰囲気を垣間見られたことをよしとしよう。

春節ファッションショー


1月30日

南極航行が近づいていることから、そのためのオリエンテーションが開かれた。このオリエンテーションは全員参加が建前で、洋上にゴミやその他の物体を放棄しないことなど、南極航行時の注意事項が伝えられた。

14階のビュッフェで夕食をとる。隣のテーブルに座ったネパール人女性と小一時間しゃべった。沖縄の米軍基地で働く31歳の彼女から多くのことを学んだ。ネパールのパスポートでこの南半球一周クルーズに参加するには6カ国の入国ビザが必要なこと。ビザ入手はそう簡単ではなく、大使館ないし領事館での面接の後、何か月も待たなければならないことなど。

1月31日

今日はウシュアイアに寄港する。ウシュアイアは「地球最南端の町」、「世界の果て(fin del mundo)」とも称されてるアルゼンチン南部の町で、南極クルーズの出発点ともなっている。

ウシュアイア到着

ウシュアイアには午前7前に接岸し、8時過ぎには上陸できた。今日は何のオプションもとっておらず、帰船リミットの午後7時まで自由に行動できる。

船を出てちょっと歩くと、多くのツアーのブースが待ち構えている。そのうちの1つでペンギン島(正式な島の名前は失念した)を訪れるツアーに申し込んだ。ツアーは定員16人。参加者は全員ピースボートの乗客で、日本人10人とマカオから来た中国人6人。

ツアーは10時に出発。1時間半ほどのバス・ドライブのあと、小型のエンジン付きゴムボートに乗り込んでペンギン島に近づく。

ボートは島から2、3メートル離れた場所に停泊。

約6000匹のペンギンが生息する島の光景は圧巻だった。なすこともなく立っているペンギンたち。ときおり泳いで船に近寄ってくるペンギンもいれば、ヨチヨチと歩き始めるペンギンもいる。

ペンギン島


ペンギン

ペンギンの動画

30分余りの写真タイムのあと、ボートは引き返す。パタゴニアの山々の写真を撮ったりしながら、町の中心部、港の近くに帰ってきたときには3時近くになっていた。代金140米国ドルとちょっと高めのツアーだが、まずは満足できる内容だった。

パタゴニアの山々

遅めの昼食のためのレストランを探してメインストリートを歩いていると、あるレストランの中から私を呼ぶ声がする。ピースボートに乗船している同県人のI氏だ。I氏は別の1人と一緒に昼食中だった。

私もこの席に加わることにする。注文したのは、トルティーヤ(スペイン風オムレツ)と白ワイン。アルゼンチンまで来てスペイン料理を注文するのも芸のない話だ。まだ食べていない牛肉のステーキを試すのが筋だろう。しかし、I氏が頼んだステーキを見て躊躇した。圧倒的なボリューム。とうてい私には食べ切れない。

トルティーヤと白ワイン

食後、スーパーで370円のカートン入りの極安赤ワインを購入し、午後6時過ぎに帰船した。

2月1日

昨日買ってきた赤ワインを朝からグラス一杯飲む。ふだん飲んでいないからこれだけでほろ酔い気分。安ワインだが、これで十分だ。特に何事もなく一日を終える。

2月2日

昨夜8時から南極圏に入ったようだ。朝の海水は摂氏2度。薄手のセーターを着込んだ。

午後1時ごろから大きな氷山が姿を現し始めた。鯨も見られたようだが、私は目撃できなかった。

氷山


2月3日

南極圏航行2日目。一段と寒くなった。甲板での朝のウォーキングはせいぜい一周が限度。freezingという形容がぴったりの寒さだ。

鯨も何頭か姿を現しているが、遠くにかろうじて見える程度。

昼過ぎになると寒さもだいぶやわらいだ。

甲板から海を見る


1時過ぎには船内成人式があった。24歳までの「新成人」を南極で祝う催しだ。

成人式


2月4日

午前中に南極圏を抜け、南極航行は終了した。が、甲板はまだ寒いうえ、船の揺れもあり、歩くのはむずかしい。

午後になって船内は南極航以前の日常を取り戻した。

2月5日

朝、波が荒く、船が揺れる。甲板へ出るのは禁じられた。

午後になると、波も穏やかになり、甲板へ出ることも可能になった。

2月6日

寒さはだいぶゆるんだ。朝、久しぶりに甲板を4周(2km強)。

今日は何のイベントにも参加しなかった。そのためか、読書が若干はかどる。

明日はチリのプンタアレナスに上陸する。



2025年1月29日水曜日

南半球一周ピースボートの旅(その10)

 1月22日

昨夜は途中で目が覚めることもなくぐっすり眠ったが、午前中の9時ごろに再び寝入ってしまい、意図していたイベントを逃してしまった。なすこともなく、無為徒食の一日を過ごしてしまった。

1月23日

リオから水先案内人として乗り込んだ張艶さんの二胡演奏を聴く。

二胡の演奏


1月24日

リオからブエノスアイレスまでオーバーランドのツアーで離船した乗客もいるため、食事の席はいつもよりもさびしくなっている。夕方にはリオから乗り込んだグループのサンバの演奏があった。

1月25日

船は早朝にブエノスアイレスに接岸した。10時ごろ、オプションの送迎サービスを利用して、街の中心のサン・マルタン広場まで行く。繁華街のフロリダ通りはすぐそこだ。

フロリダ通り

ナミビアで転んだときに傷ついた眼鏡を新調したい。眼鏡屋を見つけて入るが、「処方箋がないと売ることはできない」とのこと。ショッピングモールにある店も含め、合計5軒の眼鏡屋を訪れたが、結果はすべて同じだった。本来は検眼することも可能らしいが、今日は土曜日。検眼の設備は土、日は閉じているらしい。

眼鏡屋の店員は総じて親切で、感じがよかった。笑顔で対応してくれ、別の眼鏡店を紹介してくれた。短時間の間に5軒の眼鏡店を訪れることができたのはこのためだ。

オベリスクやピンクの国会議事堂まで足をのばしたあと、ちょっと大きめのファーストフード店に入る。ピザをメインとする店だが、陳列してある大きめのケーキが目に入る。垂涎ものだ。誘惑に負け、ピザではなく、ケーキを注文してしまった。甘すぎることなく、おいしい。が、値段もコーラと併せて1800円と、なかなかのものだった(クレジットカード払い)。

この店も感じがよかった。女店員と目が合うと、にっこり笑ってくれる。

オベリスク

ケーキとコーラ

ごく表面的に見れば暮らしやすそうなブエノスアイレスだが、フロリダ通りで「Cambio、Cambio」と両替を呼びかけてくる人の数は異常なくらいに多かった。アルゼンチン・ペソの不安定さを垣間見せる風景だ。

通りの片隅に寝転がっているホームレスもちらほら見られた。3、40代の比較的若い男性が多かった。

午後5時ごろにバスで帰船。船内で地元のプロのダンサー4人によるアルゼンチン・タンゴを鑑賞してこの日は終わった。

アルゼンチン・タンゴ

1月26日

船はブエノスアイレスを出港、ラプラタ川を下り、午後1時前にウルグアイの首都モンテビデオに着いた。

モンテビデオ上陸

2時前に下船。港を出ればすぐに街に入る。オプションは何もとっていない。特に観光の予定もなく、今日は「現地での散髪」を実行するつもりだった。

ところが、通りで「散髪屋はどこか」と尋ねると、「日曜日は散髪屋は閉まっている」との返事。スペイン語での返答だが、「domingo(日曜日)」の一語ですべてを理解できた。

たまたまリオ観光の際にバスで隣席だったI氏が声をかけてきてくれ、一緒に国会議事堂まで歩くことにした。

何人にも道を尋ねながら、独立広場や市庁舎を経て、1時間近くかけてようやく目的地に到達した。この議事堂は有名な建造物で、モンテビデオの観光スポットになっている。

議事堂を背景に

私の心に残ったのは、建物よりも、人々の親切さだ。私たちの質問に詳しく答えてくれる。途中まで一緒に付いてきてくれるケースもあった。ある婦人は英語を解するご主人をスマホで呼び出してくれたりもした。問題は私たちのスペイン語理解力で、説明が詳細になればなるほど、事情が分かりにくくなるというありさま。

スーパーに立ち寄り、飲み物やお菓子を買い込んで、港近くまで戻る。小さなレストランに入り、地元のビールの大瓶を注文。I氏と2人で疲れた体を休め、渇いた喉をうるおした。

地ビールで乾杯

日曜日ということもあり、港の近辺を除いて、モンテビデオの街は閑散としていた。しかし、ブエノスアイレスと同様、人々の温かさが強く印象に残った。帰船途中、小さな公園で、高齢者たちがタンゴを踊っているのを見かけたのもいい思い出だ。

公園で踊る

再び船内に戻ったときには午後7時を過ぎていた、

1月27日

私は有料の英語レッスン・プログラム(GETプログラム)に参加している。GETでは3月にスピーチ・フェスティバルが予定されている。GET参加者たちが2分のスピーチを披露するイベントだ。今日はこのスピーチに向けた先生との個別面談があった。私は日中韓の関係についてしゃべるつもりだが、用意していた内容は10分を超えそうなことが判明した。3月までにこれを2分間に短縮しなければならない。

1月28日

明日は旧暦の正月で、今日はその前日、つまり大晦日だ。旧正月は中華圏では、春節として盛大に祝われる。船内の装飾も数日前から春節模様になっている。

春節のデコレーション

午後からは「春節!芸達者大会!!」というイベントがあった。歌や踊り、朗唱、太極拳など。すべて素人なので、レベルは決して高くない。しかし、この種のイベントはそもそも「レベルがいかに低いか」を楽しむものだろう。

春節 芸達者大会


2025年1月23日木曜日

南半球一周ピースボートの旅(その9)

 1月16日

明日は洋上運動会ということで、生まれた月を基準に赤、青、緑、黄の団に分かれ、応援練習などが進行している。私は黄組に属するが、この種のことへの興味はほとんどない。今日も引きこもり気味の1日を過ごしてしまった。といって読書が進行したわけではない。

1月17日

快晴。絶好の運動会日和。9時過ぎに始まった運動会はなかなかの盛り上がり。私は午前中と午後に、それぞれ1時間ほど見物するにとどめた。みずから参加した競技はない。

運動会


綱引き

1月18日

日本と洋上をZoomでむすんだオンライン飲み会を敢行。日本時間の午後6時。こちらの時間は朝の7時。いろいろトラブルがあったが、なんとか2回のセッションを完了した。14階のビュッフェの様子や海上の景観を紹介したかったが、どこまで成功したかは不明。

午後、医務室で絆創膏の交換。これで一応治療を終了し、あとは自然の経過にまかせることになった。

1月19日

いくつかのイベントに参加。セネガル出身、日本在住のジュンベ(アフリカの打楽器)奏者ラティール・シーさんの本船最後のコンサートもあった。

ジュンベと弦楽のコラボ


1月20日

明日はいよいよブラジルのリオデジャネイロ。1つ2つのイベントに参加したあと、部屋の中で無為に過ごしてしまった。

1月21日

船は午前7時ごろにリオデジャネイロに着岸した。

リオに着岸

11時半にリオデジャネイロ観光のツアーに出発。まず向かったのは、ピラミッド形の大聖堂(カテドラル・メトロポリターナ)。

続いてさっそく昼食の席に向かう。といっても時刻はすでに2時を過ぎている。炭火焼きを売り物にしている大きなレストランは100名以上のピースボートのツアー客で埋め尽くされていた。

炭火焼きの肉はおいしかったが、そのおいしさは「味の濃さ」からくるものだった。

レストラン

肉料理

腹もいっぱいになったところで、このツアーのハイライトであるボン・ジ・アスカール(シュガー・ローフ)に向かう。これは半島に突き出た奇岩で、頂上からリオデジャネイロを一望できる。

頂上に達するにはケーブルカーを乗り継がなければならない。最初のケーブルカーに30分以上、次のケーブルカーにも30分以上、それぞれ列に並んで待機しなければならなかった。35℃に達するリオの夏のもと、喉が渇き、疲れがたまる。

頂上からの眺めはすばらしかったが、それよりも「疲れた」というのがツアー一行の正直な感想だった。

リオを一望する

疲れた一行を乗せたバスは、延々と続くコパカバーナ海岸沿いに走り、セラロンの階段に至る。階段を写真に収め、帰船の途についた。

船内に戻ったときには8時半を過ぎていた。喉の渇きをいやすために、マダガスカルで買った500mlのビールの缶を空けた。

今日一日、リオの街を丘の上から眺め、車窓から垣間見た。もちろん、これではリオを知ったことにはならない。地面に足をつけ、自分の足で歩き、電車などの公共交通機関を利用し、道行く人々とふれあってこそ、街の「空気」を感じ、街を「見る」ことができるだろう。バスの中の一日ではとうてい足りない。

2025年1月17日金曜日

南半球一周ピースボートの旅(その8)

 1月10日

朝食時、私の前には80代の日本人男性が座る。男性は昨日のケープタウン寄港時、南ア在住の友人(白人)に37年ぶりに会いに行ったという。当時、商社に勤めており、ケープタウンには6年住んだとのこと。お手伝いさんや庭師を抱え、大きな屋敷に住んでいたという。アペルトヘイト時代の貴重な経験だ。

次の寄港地のナミビアでは何のオプションもとっていない。すべてのオプションが売り切れていたためだ。ところが、ある若い女性が「ナミビアの多民族文化体験」というオプションを譲る相手を探していた。オプションをキャンセルすれば半額のキャンセル料をとられるが、譲渡する形にすれば、1000円の手続き料で済む。

この話に乗ることにした。これで明後日のナミビアでの行き先が決まった。

1月11日

午前中、乗客の避難訓練があった。「訓練」といっても、IDカードをスキャンして、一定の場所に集合するだけで、その効果は疑わしい。せめて救命具を実際に着用することくらいは必要だろう(やりたくはないが)。

昼食時には中国系オーストラリア人と同席だった。12歳のときに香港からオーストラリアに移住したとのこと。精神科医として働いていたが、今は引退している。日本、中国、韓国からの乗客が大半のなか、このように多様な背景の人に出会えるのがこの船のいいところ。

1月12日

「ナミビアの多民族文化体験」ツアーの日。「多民族」と銘打っているが、有名なヒンバ族などを訪れるツアーではなく、南アフリカの統治下にあった当時の黒人居住地(タウンシップ)を訪ねて交流するツアーだ。

このツアーも興味深かったが、それよりも報告しておかなければならない「ビッグ・イベント」がある。ツアーの途中で負傷してしまったのだ。

みんなでタウンシップに向かって歩いているとき、足がふらつき、そのまま止まらなくなって、道路上に前向きに転倒、額を打ってしまった。

額からは血がかなり出ている。ツアーのナミビア側関係者の車で病院に運ばれ、治療を受けた。傷は深くはないが、ガーゼを貼り、その上に包帯を巻いたため、痛々しい。

ナミビア(ウォルビスベイ)の病院


治療直後

治療後、再度ツアーに合流した。一行はタウンシップに入り、traditional healerから薬草の説明を受けているところだった。 

その後、ナミビア側のリーダーの私宅でナミビア料理の試食、カラハリ砂漠から来たグループのダンスの鑑賞などを経て、7時過ぎに帰船、ツアーを終了した。

私宅に立ち寄って食事

ダンス

ツアーはともかく、予期しないアクシデントの発生と負傷でとんだ災難の一日となった。前日から極度に疲れており(喉も痛かったから、たぶん風邪をひいていたのだろう)、歩くのも前かがみ、自分で自分の歩行をコントロールできなかったことが原因だ。

幸い深手ではないので、傷は時間が経てば治るだろう。困るのは、眼鏡に多数のスクラッチ傷が入ったこと。予備の眼鏡は持って来なかった。できれば南米で新しい眼鏡を購入したい。

1月13日

9時半に船内の医務室へ行く。絆創膏と包帯を新しいものに替える。傷口に砂が混入していることから、水を含んだ綿で傷口を直接に拭く。力を込めた医師の手が傷の上をキュキュッと擦る。1分以上は続いただろうか。医師も看護婦も優しく、好感が持てたが、痛いものは痛い。

今回も包帯で頭をぐるぐる巻きにしたから、船内で目立つことこの上ない。顔見知りに出会うたびに経緯を説明するはめになる。

1月14日

今日も医務室へ。包帯がとれ絆創膏だけになった。包帯男ではなくなったため、目立ち方は昨日ほどではなくなった。ただ、右眼の周りの黒い腫れはまだひいていない。中国ではこの種のblack eyeを「パンダの眼」と呼ぶらしい。

絆創膏だけになった

1月15日

3日連続して医務室へ。傷口に貼る絆創膏はさらに小さくなり、やっと正常に近い船内生活を送れるようになった。次回の診察は3日後の18日。

2025年1月10日金曜日

南半球一周ピースボートの旅(その7)

 1月6日

船は午前7時過ぎにポートエリザベスに着岸した。オプションとして選択していたショッピングモール(Boardwalk)への送迎バスは12時15分に港を出て、20分ほどで目的地に着いた。海辺のそばのショッピングモールだ。

海辺を散策してから、モールに入る。クリーンでしゃれた一階建てのモール。ヨーロッパのモールと比べても遜色はない。無料のトイレもきれいだ。

海水浴を楽しむ地元民

ショッピングモール

ちょっと大きめのレストランでhakeという魚の料理を注文する。あとで調べると、hakeはタラの一種らしい。出てきたのはイギリス式のフィッシュ・アンド・チップス。まずは満足できる味で、1800円ほど。値段もアフリカの平均的なレベルではない。

フィッシュ・アンド・チップス

再度海辺をぶらぶらする。昨日の講演で覚えたXhosa語の「Molo」(ハロー)を使って声をかける。反応は上々だ。日本、中国、韓国人が乗り合わせている「ピースボート」の乗客であることを説明する。

手を振る地元民

6時に帰船の途につき、南アフリカの第一日を終えた。

1月7日

この日は「ポートエリザベス・ショート観光」のオプションをとっていた。9時から12時までの文字通りショートのスケジュール。

ガイドは中年の白人女性。英語のみのガイドで、日本語の通訳はない。

バスは街を見おろす丘に着く。市庁舎、灯台、記念碑などがあるドンキン保護区で、ポートエリザベスの中心部だ。

ドンキン保護区ツアー

誰かがポートエリザベスとケープタウンの間にあるライバル関係についてガイドに質問した。「比較にならない」とガイド。「ケープタウンのほうがずっとよい。ケープタウンは野党(Democratic Alliance)によって統治されているのに対し、ポートエリザベスを統治しているのはANCで、ANCは腐敗しきっている。」

続けてバスは、私が昨日訪れた海辺のショッピングモール(Boardwalk)に向かう。ここで約1時間の自由行動。

海辺を歩いていると、眼だけを露出した黒いヴェール(ニカブ)を被った若い女性が私に話しかけてきた。女性は18歳のインド系南アフリカ人。「そんな服装で歩いていて、人から何も言われないのか」と尋ねると、「まったく大丈夫」との返事。「結婚相手はやはりモスレムがいいか」とも聞いたが、答はよくわからなかった。ともかくこうした服装の女性が男性に積極的に話しかけてきたのは予想外だった。

12時になり、帰船の時間。このショート観光で支出したのは、モールで買ったアイスクリームだけ。340円ほどだった。

早い時間の帰船で、再度の外出も可能だったが、疲れていたのでベッドの上で終日ごろごろしていた。

1月8日

ポートエリザベスとケープタウンの間に挟まれたつかの間の1日の洋上生活。いくつかのイベントに参加する。

GETプログラムの先生であるオーストラリア在住のオランダ人女性Edithによる「サン族」の講演がおもしろかった。カラハリ砂漠に住むサン族(およびコイ族)には従来から興味があり、いつかは訪れようとも思っていた。EdithのDNA解析によるサン族の歴史とユニークさにまで及んでいた。この方面にまったく無知な私にととっては役に立つ情報だった。

1月9日

船は早朝にケープタウン港に接岸した。私が申し込んでいた「タウンシップ・ランガ地区」探訪のツアーは11時に港を出発した。ランガは最古の黒人居住地であり、観光客が単独で入るのは困難と言われている。ピースボートはランガのNGOと数年前からつながりがあり、今回も服や靴などの支援物資を持ち込んでいた。

ツアーはアペルトハイト時代を描く寸劇から始まり、街の散策、昼食へと進む。

昼食はビュッフェ式(ライブ演奏付き)

昼食後、NGOの本部まで歩いて行く。住民たちが声をかけてくる。

ランガの子供たち

NGOで支援物資を渡し、ダンスのパフォーマンスを鑑賞、帰船の途についた。 

船に入る前にウォターフロントに立ち寄った。ランガとは対照的に、ここには小ぎれいでしゃれたレストランやバー、ショップが立ち並んでいる。

ウォーターフロント

夕食はいつもの6階のレストランで。丸いテーブルを取り囲む6人のうち、ひとりだけが中国人だった。彼は元外交官で、北米などでの駐在経験があるという。どおりで英語が達者なはずだ。

中国の反日事情(彼によると中国の若者の間では日本語や日本のアニメが大人気とのこと)や少子化問題から始まり、話題は毛沢東の評価にまで及ぶ。英語での会話に入り込めない日本人の同席者に少し配慮が足りなかったかもしれない。