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2015年11月11日水曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 まとめ

ボストンから来たBobは、今回のツアーに参加した理由を「curiosity(好奇心)」としていた。好奇心が訪朝の動機となっているのは、今回のツアー参加者のほぼ全員に共通しているだろう。北朝鮮への旅は風光明媚な自然や名所旧跡を求める旅ではない。ショッピングや美食のための旅でもない。美しい自然、歴史上の名所、おいしい食べ物が北朝鮮にないわけではないが、これらはいわば付随的な楽しみだろう。動機としてもっと大きく、もっと強いのは、我々と違う体制、そのもとで暮らす人々への興味だ。欧米や日本の報道で批判され、非難され、恐れられ、揶揄されている体制。そんな過酷な体制下に暮らす(暮らさざるをえない)人たちも我々と同じ人間だという、ごく当たり前のことを発見するのが北朝鮮への旅だといえる。だが、私のように1度ならず何回も訪朝するケースはどうだろうか。好奇心だけで説明するのはちょっと無理かもしれない。ここらへんの事情、つまり「なぜ北朝鮮に行くのか」については、「北朝鮮旅行2014」に記しておいた。

http://chojiro22.blogspot.jp/2015/09/2014_20.html

「北京での事前説明会」の記事に書いたように、Koryo Toursの鉄道ツアーに申し込むにあたって私が期待していたのは次の2つだった。

(1) まだ訪れたことのない北朝鮮第二の都市、咸興に行くこと。
(2) 10月10日の朝鮮労働党創設70周年のパレードを見ること。

咸興訪問もパレードの見物も実現はされたが、どちらも満足度は100点満点でせいぜい50点くらいだった。咸興での滞在時間は短く、訪問先も銅像と肥料工場だけだった。市民の暮らしぶりを垣間見るような機会は与えられなかった。咸興駅の待合室にいる人たちがプラットフォームにいる我々をガラス越しに興味深そうに見ていた光景が記憶に残る。このガラスが我彼を隔てる厚い壁のようにも思える。

駅の待合室から我々を見る咸興市民

金日成広場でパレードを見ることは最初から期待していなかった。が、沿道でのパレード見物も満足のいくものではなかった。さんざん待たされたあげく、日がとっぷりと暮れてから始まったため、よく見ることができなかったからだ。暗すぎて写真撮影もかなわなった。

10月10日の平壌

ついでに期待外れだったことをもう1つ挙げておこう。北朝鮮の人たちとのふれあいがほとんどなかったことだ。2013年に個人で訪朝したときには、農家で行われていた還暦の祝いの席に偶然に立ち会うことができた。平壌・丹東を往復した列車の中で誰に監視されることもなく北朝鮮の人たちと交わるといったこともあった。昨年の北朝鮮東北部ツアーでも、七宝山や清津の海岸で北朝鮮の観光客や家族とつかの間の交流を持つことができた。演出されたものであるとはいえ、中・高校生と英語で話す機会もあった。今回はこうした場面が皆無だった。せいぜい通りすがりの子供に年齢を尋ねたり、地下鉄で写真撮影の許可をとるために話しかけたりしたくらいだ。唯一の例外は清津観光旅館で日本から帰国した老人と話したことだが、これも短すぎた。

還暦を祝う農家にて(2013年)

だからといって、鉄道ツアーに参加したことを後悔しているわけでは毛頭ない。平壌ー妙香山ー咸興ー清津ー元山を行く列車から見た北朝鮮の風景は私にとっては新しい発見だった。写真や動画もたっぷり撮ることができた。10日間を共に過ごし、しかもそのうち6日間は狭いコンパートメントや食堂車の中で一緒だった同行者たちとは昨年のツアー仲間以上に親密な関係を築くことができた。数人の同行者とはかなり立ち入った政治的な話もしたが、おおよそ同じような意見だったこともうれしい。先の記事でも書いたように、北朝鮮を知る旅は、ツアー同行者について知る旅でもあった。

食堂車でのひととき 1

食堂車でのひととき 2

私にとっては6回目の訪朝だが、昨年は平壌を外した清津・七宝山・羅先のツアーであり、首都を訪れるのは2年半ぶりだった。この2年半、平壌はどう変わったか。私たちのガイドも運転手も全員スマートフォンを使っていた。携帯電話とデジカメの登場は2010年の訪朝時に目にしていたが、スマートフォンは2013年の時点でも見なかった。2010年ごろにはすでに顕著だった車の増加はさらに一段と進んでいるようだった。とりわけタクシーの増加が目についた。10年前には高麗ホテルの前でタクシーを1台見かけたどうか。外国人客などたかがしれているから、おそらく平壌市民のタクシー利用が増えているのだろう。

地元の客でにぎわう光復地区のスーパーマーケットの印象はとりわけ強い。一定の購買力を持つ中産階級の存在を示唆するような光景だった。こうした階層が人口のどれくらいを占めるのかはわからない。ごく一部だとしても、どれくらいごく一部なのか。もっと具体的に、彼らの多くは党や軍の幹部なのか、それとも配給制度の破綻に乗じた商人たちが主体なのか(外見だけからすればスーパーの客の多くはごく平均的な平壌市民だった)。こうした「消費社会化」と金正恩の体制がどう関係するのか。残念ながら「見る」ことが理解につながるわけではない。

先に書いたことの繰り返しになるが、「北朝鮮は貧しい、貧しいはずだ」という思い込みに引きずられないようにすると同時に、平壌の一風景から北朝鮮全体を判断する危うさにも注意しなければならない。

今回の鉄道ツアーをもって私の北朝鮮訪問は一段落ついた。十分とはいいがたいが、北朝鮮第2の都市である咸興にも足を踏み入れた。外国人に開放されている所でまだ行っていないのは、平城、信川、海州、新義州(新義州は最近日本人にも訪問可能となったと聞く)くらいか。いずれもマイナーな場所だ。何か特別なツアーでもない限り、北朝鮮行きは一休止となる可能性が高い。とはいいながら、またすぐにでも行くかもしれないのが、北朝鮮の不思議な魅力だ。


 

2015年11月7日土曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 十二日目(10月13日)

列車はほぼ予定どおり8時過ぎに北京駅に着く。北京駅前でこのツアーの完全な解散となる。OksanaやMonishaの女性陣とはハグして頬をすりあわせる。私だけでなくたいていの日本人にとっては苦手な儀式だろう。

我々を北京まで運んだ列車

私はこの日は北京で1泊する。この日の午後にも北京発関空行きの便はあったのだが、列車の遅れを考慮して、あえて翌日の便を予約していたからだ。宿は予約していない。

同行者たちの多くは迎えにきていた車でいったんKoryo Toursの事務所まで行くようだったが、私は北京駅近くで宿を探すことにした。

バックパックを背負って宿を探すが、なかなか見つからない。安い宿は外国人を宿泊させる許可を得ていない場合が多いのでなおさらだ。朝食をとっていないから、歩き回っているうちに腹が減ってくる。適当な安食堂がなく、マクドナルドに入る。外国でマクドナルドに入るのは数年前のインドのコルカタ以来だろうか。海外ではマクドナルドやスターバックスは極力避け、できる限り現地の食べ物を試したいところなのだが。

結局北京駅から地下鉄の東単駅近くまで歩き、「地球の歩き方」に載っている東方晨光青年旅舎に宿をとった。トイレ・シャワー、Wi-fi付きのシングルルームで148元(トイレ・シャワー共同の場合は128元)。およそ3000円だ。部屋は地下で狭い。地方都市なら100元以下だろう。

フライトは明日の午後4時すぎなので、観光のための時間はそれなりにある。しかし、10日間の北朝鮮鉄道旅行のあとではあまりがつがつ探し回る気になれない。観光より休息だ。

新しい場所を探索する意欲もないので、例によって王府井や景山公園まで歩く。モノを見るよりヒトを見ているほうがおもしろい。旗を先頭にぞろぞろと歩いている地方からの数多くの団体旅行客。数年前の日本の団体旅行と似ていなくもない。韓国からの観光客もちらほらいるようだ。日本語を話す集団には出会わなかった。

観光客を観察

さらに数十分かけて地下鉄の東四駅まで歩く。途中、小さな店で臭豆腐を食べた。10年以上前に台湾へ行ったときから気になっていた食べ物だが、これまで食べる機会がなかった。あまり臭くはなく、味もそこそこいける。特別においしいというわけではないが、何回も食べればくせになるかもしれない。

臭豆腐

そろそろ日が暮れてくる。臭豆腐を食べたから、腹は満たされている。東四駅近くのスーパーに入り、夕食代わりのきな粉餅(みたいなもの)と飲料を購入して、地下鉄で宿まで帰った。きな粉餅はおいしかった。

東四付近の裏通り

夜中に目が覚める。寒くもないのに体が震える。風邪を引いたみたいだ。やはり体が相当疲れていたのだろう。明日のフライトは午後だからゆっくり休もう。

北朝鮮鉄道の旅はこのようにして終焉を迎えた。

2015年11月6日金曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 十一日目(10月12日)

平壌から北京への帰路は空路と陸路(鉄道)のいずれかを選択できた。ただし、アメリカ人は平壌から中国の丹東への鉄道の利用を許されておらず、空路で帰るしかない。咸興や清津への鉄道の旅は可でも、丹東へは不可というのも変な話だ。アメリカ人に対してたとえシンボル的なものであっても何らかの差別待遇を残しておきたいという意図なのか、ただの惰性でそうなっているのか。北朝鮮の動きには、すべて計算しつくし、裏の裏まで読んでいるようで、実は何も考えておらず、ただなりゆきまかせているようなところがある。逆に、特別な意図や動機がなさそうな動きや決定でも、その背後に緻密な計算が働いている場合があるのでやっかいだ。

列車で北京まで帰るのを選択したのは、私のほかに、JonathanとOksanaのカップル、JeremyとMonishaのカップル、Jane、それにNickだった(Janeは丹東1日ツアーのオプションを選んでいたので途中で離脱する)。つまり、アメリカ人以外に空路で帰ったのはFrank、Lloyd、Jamesということになる。

北京行きの飛行機は8時30分発なので、空路組は早朝にホテルをチェックアウトしていた。列車の出発時刻は午前10時。朝も余裕がある。ホテルの朝食会場で日本人らしい若いカップルを見かけたので声をかけた。張氏がガイドをしているグループの一員らしい。

9時過ぎに平壌駅に着き、ガイドたちとの別れの儀式のあと、列車に乗り込む。私はJonathanとOksanaのカップルに加え、個人で訪朝していたオランダ人男性(アムステルダム在住の写真家ということだった)と一緒のコンパートメントに入った。北京行きのこの列車にはKoryo Toursの添乗員であるSarahやVickyも同乗していた。

平壌から新義州を経て丹東に至る鉄道の旅は私にとって初めてではない。2013年4月にはこの路線を往復して訪朝している。このときには、行きの列車で共和国の商務担当外交官と英語で話し、帰りの列車では北朝鮮の男性グループからソジュ(焼酎)や食べ物をわけてもらった。今回帰路に列車を選んだものこうした「交流」を期待したからだったが、この期待ははずれた。同じ車両に北朝鮮の人たちも乗っていたのだが、外国人観光客と相交わることはなかった。北朝鮮の人たちのコンパートメントにひとり放り込まれた前回と違い、今回は我々のグループが大きすぎた。水泳競技(飛び込み)のために北京に向かう北朝鮮の女子選手に声をかけて、写真を撮らせてもらうことができたのがせめてもの「交流」だった。
飛び込みの選手

列車の中での昼食は羊角島ホテルから持ち込んだ弁当だった。10月10日の弁当ほどひどくはかったが、昨年清津や羅先で食べた弁当に比べれば明らかに劣る。たった2回の経験で「羊角島ホテルの弁当はまずい」と結論するのは早すぎるかな。

沿線の風景を少し紹介しておこう。


沿線の風景 1

沿線の風景 2

沿線の風景 3

新義州での出国手続きは特に問題なかった。私は、書き終えた出国カードを紛失したり、携帯電話を荷物の中から取り出すのに手間がかかったりでさんざんな目に遭ったが、これは私個人の不注意と不手際によるものだ。スマートフォンの写真はごく簡単にチェックされていたが、SDカードのチェックはなかった。

出国手続きのために2時間ほど新義州で停まった列車が再度動き出す。鴨緑江を渡ればすぐに丹東だ。Janeはここで降りた。丹東でとれくらい停まったか、よく覚えていない。川を隔てた北朝鮮の風景と中国の風景のコントラストは2013年にすでに経験していた。くすんだような煙突しか見えない新義州と高いビルがそびえる丹東。

丹東出発後、中国車両の食堂で夕食をとった。Jonathan、Oksana、Nickと同じテーブルにつく。料理は一人前一律で80元(1600円弱)と高め。ビールは10元。ビールはBadwiserしかなかった。Badwiserは不評で、注文したのは私だけだった。Nickはワインを注文していた。

食堂車の料理

Nickはロンドンの高級住宅街であるノッティングヒルに住む。両親ともに俳優で、母親は引退後もBBCのJust a Minuteという番組などに出演していたらしい。彼は10月10日に羊角島ホテルのロビーでBBCのインタビューを受けていた。インタビューはかなり挑発的で、「ノッティングヒルの金持ちが北朝鮮に来て何をしたいのか」と聞かれたり、「北朝鮮観光は血の上に築かれた観光だ(tourism based on blood)」と言われたりしたらしい。Nickのことだから、のらりくらりと答えていたもよう。

そのNickがこの夜は我々3人を相手に自分のプライベートな生活のことを蕩々としゃべった。太っていていじめられた子供時代、ホスピスで死んだ父親と死の数週間前に最高の関係を築けたこと、逆に母親との関係は母親の死に至るまで最悪だったこと、離婚で多額の慰謝料を支払ったことなど。「友人にも話していないこんなプライベートな話をして申し訳ない」と謝っていたが、「いやいや非常に興味深い」と返答しておいた。実際興味深かった。

寝台車ではJonathanとOksanaが上段のベッドで寝てくれた。慣れない環境ではなかなか眠れない私にとってはありがたかった。夜中に2、3回目が覚めてトイレに行くはめになったから。

明日の8時過ぎには列車は北京に着くはずだ。

2015年11月5日木曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 十日目(10月11日)

朝食をとるために1階に降りると、ロビーに張氏を見かけた。2005年と2010年の訪朝時にお世話になった日本語ガイドの張氏だ。5、6人の日本人のグループに何か説明をしているところだった。握手をして、Koryo Toursの鉄道ツアーで来ていることを告げ、食堂に入るまでの間短い会話を交わした。「今日はどこを訪れるのですか」との問いにうまく答えられない。今日の最初の訪問先は金日成と金正日の遺体が保存されている錦繍山(クムスサン)太陽宮殿だったのだが、この名称を知らなかったのだ。英語のmausoleumしか頭に浮かばず、日本語が出てこない。苦し紛れに「正装して行くところです」と答えると、張氏が「太陽宮殿ですか」と言う。ああ太陽宮殿というのかと、ここで初めて知った。

平壌にはこれまで4回来ているが、錦繍山太陽宮殿を訪れるのは今回が初めてだった。北朝鮮旅行の斡旋をしているMarkは「万寿台の銅像や万景台の生家と並んで錦繍山は必須の訪問地で、平壌観光には必ず含めるように指示される」と言っていたが、こと私に関してはこれはあたっていない。平壌を観光しながら錦繍山どころか銅像や生家さえ訪れなかったこともある。遺体には何の興味もない私は錦繍山をリクエストすることもなかった。きちんとした服装でという条件も鬱陶しく、むしろ避けていた。今回もKoryo Toursのパンフレットにはmausoleumについてふれていなかったので、喜んでいたくらいだ。おかげでネクタイを用意していなく、カナダ人のFrankに借りることになった(ネクタイを着用していない訪問者も見かけたので、着用は必須ではないのかもしれない)。

カメラやカード、金属類をすべて入口で預け、長い廊下を歩き、埃除去装置(?)を通過して中へ入り、まず金日成、続いて金正日の遺体を見る。遺体を囲む四方からそれぞれ4回お辞儀して、先へ進む。宮殿内部には金親子に与えられた勲章、名誉称号、さらには専用車や専用列車も陳列されている。建物の外に出るとき、Jeoffが私に「どう思うか」と聞いてきた。一言「insane」と答えておいた。

太陽宮殿の見物を終えて、バスに戻ったとき、Markがみんなをびっくりさせる。なんと人民服(金正日服かな)姿で登場したのだ。10月2日に平壌に着いたときに羊角島ホテルの仕立屋にスーツを注文したのは知っていた。しかしその「スーツ」が人民服だったとは今はじめて知る。同行者はこぞって彼の写真を撮る。彼もまんざらではなさそう。人民服の代金は125ユーロ。私も次回には一着あつらえようか。

人民服姿のMark

次にバスが向かったのは、光復地区商業中心。中国との合弁で2012年にオープンしたスーパーマーケットだ。ここでは外貨(最低5ユーロ以上)を現地通貨のウォンに両替して、平壌市民に混じって買い物をすることができる。昨年のツアーでは羅先の市場で買い物ができたが、使ったのは中国元であり、ウォンでの買い物ははじめての経験だ。両替したウォンは建前上は国外持ち出し禁止だが、添乗員のSarahによると、「財布にでも入れていない限り、見つかることはない」とのことだった。JamesとRayと私は3人で5ユーロを両替し、ウォンを分け合った。買い物が目的の両替ではなく、持ち出しが目的の両替だ(私は5000ウォン札3枚を日本に持ち帰った)。

光復地区商業中心(内部の写真撮影は不可)

スーパーは思ったより大きく、品揃えも豊富だった。規模からしても品揃えやレイアウトからしても、中国の中規模のスーパーに匹敵する。1階は食品と日用品、2階は衣料と家具、3階はフードコートだった。中国製の商品が多いなか、シャンプーや洗剤には日本製のものもあった。中国経由で輸入しているのだろう。

昼近いこともあり、フードコートは混んでいた。肉や麺類など、量も質も中国の地方都市のレベルと言っていいだろう。最近の平壌が一種の消費社会になりつつあることは知っていたが、ここまでは予想していなかった。ここでも「北朝鮮は貧しいはずだ」という思い込みが崩される。もちろん平壌と清津などの地方との差は大きいし、それ以前に我々が立ち入りを許されていない町や村が数多くあることを忘れてはならない。昨年車がほとんど通らない咸鏡北道の道路で20個余りのリンゴを売っていた中年の女性の姿が思い出される。「貧しい」という思い込みが危険なのと同様、平壌の「豊かさ」に判断を曇らされてしまうことにも注意しなければならない。

人民服のMarkを交えてレストランで昼食をとる。またまた朝鮮国際旅行社のレストランだ。冷麺とビビンバのどちらかを選択でき、私はビビンバを選んだ。隣の席のJeoffに韓国の反日感情や竹島(独島)の領土問題について聞いてみる。Jeoffはソウルに3年間住んでいる。「韓国の政府は人気がなくなると反日カードを切る傾向がある」とのことだった。これはまあよくある見方だ。彼は"Samsung Empire"という本を執筆する予定らしい。

昼食後は路面電車の乗車体験だ。2004年に初めて訪朝したとき、平壌市民に混じって路面電車に乗ることができた。案内員がいろいろ手をつくしてくれて可能になった乗車だった。夕暮れが迫る中、路面電車の中の黄色い灯り、灯りに照らし出された人々の暗い表情、束になった切符を持つ若い女性車掌の顔。今でも忘れられない。乗車の際に「財布に気をつけて」と注意してくれた案内員の言葉も。今回は我々専用にチャーターした路面電車だ。朝から降っていた小雨も止み、申し分ない。ゆっくり走る路面電車から見る平壌の風景は車の車窓から眺めるものとはひと味違う。かなり長く乗った。1時間近く、あるいはそれ以上だったかもしれない。


路面電車を降りた我々は平壌駅前を歩く。Markは人民服のままだ。平壌の街の中での堂々のコスプレ。道行く平壌市民もちらちらと彼のほうに視線をやっていた。

平壌駅前のMark

このあとの予定は金日成花・金正日花の展示場と朝鮮労働党創設記念塔へ行くことだったが、ホテルで休むという選択肢もあった。私を含めほとんどの同行者がホテルでの休息を選んだ。金日成花・金正日花の展示場も朝鮮労働党創設記念塔もすでに訪れたことのある場所だ。疲れた体を引きずって再訪するほどの場所ではない。まだ午後3時。6時の夕食まで3時間の長い休息となった。

平壌最後の夕食が午後6時と早い時間になったのは、私を含め何人かが夜の9時に始まる青峰楽団のコンサートに行くことになっていたからだ。夕食は市内のレストランでアヒルの焼き肉。平壌最後の夜に食べる定番の料理だ。食事の席でMarkが私に言う。「お前とはこれからもずっとコンタクトをとりたい。ぜひ一度アメリカへ来い。」「アメリカがお前にとってエキゾチックな場所でないことはわかっている。だが、私はアメリカの中のエキゾチックな場所を知っている。」

平壌最後の夜

10月10日前後の平壌でのオプションとして、当初、サーカス、マス・ダンス、青峰楽団のコンサートの3つが提案されており、私はすべてに申し込んでいた。しかし、実現されたのはコンサートだけだった。コンサートのチケット代は100ユーロ。安くはないが、こうした機会はそうあるものではない。

青峰(청봉=チョンボン)楽団は7月に結成されたばかりで、今回の公演が北朝鮮でのデビューという。この新しい楽団の説明が韓ガイドと深ガイドで食い違っていた。「チョンボンはモランボンを発展的に継承したものだ」という韓ガイドの説明に対し、深ガイドは「チョンボンはまったく新しい楽団で、モランボンは今までどおり活動を続ける」と言っていた。帰国してから調べると、深ガイドのほうが正しいことがわかった。

コンサート鑑賞を申し込んだのは私、Mark、Jeoff、Lloydの4人だけだった。8時過ぎに羊角島ホテルの前に集まり、Koryo Toursの他のグループや個人旅行者と一緒に1台のバスで会場の人民劇場に向かった。人民劇場は内も外もライトで煌々と照らされており、そこだけ取り出せば他の国のどのコンサート会場と比べても遜色なかった。

コンサートの写真撮影は禁止。入口で荷物をチェックされ、カメラは預けることになった。なぜかチェックを逃れてカメラを持ち込むことに成功したMark、公演中に1、2枚写真を撮っていたのはいいが、警備員に見つかってしまう。休憩時間に別室に連れて行かれ、カメラを没収される(画像削除のうえ、会場を出るときに返してもらった)。最後の最後までMarkらしかったといえよう。

青峰楽団は北朝鮮の歌に加え、「草競馬」などのアメリカ民謡、ロシアの歌曲なども披露した。正直なところ、私の好みにぴったりというわけではない。カヤグムやヘグムなどの伝統楽器が登場する今は亡き銀河水(ウナス)管弦楽団がなつかしい。疲れていたせいもあり、公演中は早く終わればと思ったほどなのだが、Youtubeにアップされているこのときの公演を見るとそう悪くもない。

ホテルに帰ったのは11時ごろ。明日はいよいよ平壌、そして北朝鮮を離れる日だ。

2015年11月3日火曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 九日目(10月10日)

10月10日は朝鮮労働党の創設記念日で、今年は70周年にあたる。我々の旅もいよいよ大詰めにきた。

労働党創立70周年当日の羊角島ホテル

羊角島ホテルは観光客に加え、各国からの報道関係者でいつになく人が多い。朝食のためにエレベーターに乗ると、満杯のエレベーターの中に日本人らしい男性2人がいるのに気づいた。声をかけると、朝日テレビだという。この旅で遭遇した初めての日本人だ。「パレードはいつ始まるか、聞いていますか」と尋ねられたが、もちろん私にはわからない。

羊角島ホテルのビュフェ式の朝食

ホテルの一角はプレスセンターとなっていて、数台のノートパソコンが並んでいた。ここからはインターネットへの接続も可能らしい。

外国人観光者が金日成広場の軍事パレードに参列できないことはあらかじめわかっていた。金日成広場の式典終了後に街に繰り出す戦車や兵士を沿道から見るだけだ。だがそれがいつになるか誰も知らない。朝から小雨が降ったり止んだりしていたこともあり、空が晴れるまでパレードの開始を待っているのではないかと推測する人もいた。

パレードがいつ始まるわからない中、我々の平壌観光がスタートする。まず向かったのは万景台にある金日成の生家。この「聖地」も普段の日だと訪問者がほとんどいなくてひっそりと静まりかえっていることもあるのだが、この日はラッシュアワー並の混雑だった。

ひととおり見てバスへ戻る道すがら、私の名前を呼ぶ声がする。Vesだ。北京で中国語を学んでいるブルガリア人のVesとは昨年の北朝鮮東北部のツアーで一緒だった。抱き合って再会を喜ぶ。Vesはネクタイを締めて正装している。錦繍山太陽宮殿にでも行くのだろうか(彼は今回はYoung Pioneer Toursのツアーで訪朝していた)。Vesは昨年のツアーのあとで私にメールを送ってくれたらしいが、私は受け取っていなかった。中国相手のメールではしばしばこういうことが起こる。

Vesとの短い出会いもそこそこに平壌観光は続く。外国人向け書店、革命戦士の墓、そして平壌民族公園へと。このころになると、曇り空ながら雨は止んでいた。民族公園は3年前にオープンしたばかりで、私にとっては初めての訪問。ある程度の期待もあったのだが、がっかりした。期待していたのは、体験型のイベントや民族楽器の実演などだが、そうしたものは一切なかった。そもそもイベントや実演をやるほどの人がおらず、閑散としていた。唯一の「体験」は、全体を見渡せる塔から降りたところで、コップ一杯のマッコリ(有料)を飲んだことくらいか。

平壌民族公園のガイド

昼食も近くなり、プールやカフェが入っている近代的な建物に入る。ひょっとすればこれはイルカショーをやっているところだったのかもしれないが、確かめていない。建物を入ったところに金正日の蝋人形があり、全員で一礼する。この場を去るとき、私は蝋人形をパチリと1枚撮った。と、職員らしき女性の叫び声。韓ガイドが慌ててやってきて、撮ったばかりの写真を削除するように指示された。撮影禁止だったらしい。銅像はよいが、蝋人形はだめ。どこに基準があるのかはっきりしない。

建物にあるレストランらしきところで、羊角島ホテルから運んできた弁当を食べる。この弁当のご飯がまずかった。ばらばらでまったく粘りがない。Lloydも「ライスがちゃんと調理できていない」と言っていた。昨年清津や羅先で食べた弁当はおかずも充実しておりおいしくいただいのだが、このときばかりはご飯の半分くらいを残した。

このあと、パレードを待つためか、この建物内のカフェで1時間余りを過ごす。カフェはおおぜいの外国人観光客でいっぱいで、カオス状態だった。席についても注文をとりにくるわけではない。カウンターでお金を払って注文するドトールやスターバックスの方式でもない。なにがなんだかわからない中、カウンターまで出向いてコーヒーを受け取った。ここのコーヒーはインスタントではなく、エキスプレッソだった。その分高価で、カフェを出るときに20元(約400円)支払った。伝票があるわけではなく、自己申告だ。おそらくおおぜいの客に慣れていなかったのだろうが、このカオスぶりは昨年の北朝鮮出国時の税関の混乱と似ていた。要するに手順がきちんとマニュアル化されていないのだ。

街中でのパレードがいつどこではじまるかはっきりしておらず、ただ待つしかなかったのだが、突然どこかから指示が出たらしく、カフェを慌てて出で、金日成花・金正日花の展示場の前の道路ぎわで待つことになる。この日平壌にいた外国人観光客は全員ここに集結しているようだった。昨年のツアーの添乗員だったVickyにも会った。Koryo Toursのイギリス人スタッフ6人は全員この日添乗で平壌に来ており、北京の事務所に残っているのは中国人スタッフだけということだった。

道路ぎわに立って待っている100人を超える外国人観光客。しかしいつまで待っても何も現れない。1時間待ったかか、2時間待ったか。やがて別の場所に移動するようにとの指示がどこからか出されたらしい。全員数百メートル離れた場所に移動する。新しい待機場所はたぶん2013年にオープンした高級レストラン「ヘダンファ(はまなす)館」の前だったと思う。

ひたすら待つ

ここでも少なくとも2時間くらいは待った。戦闘機が空に70の文字を描いた隊形で飛んでいく。花火もあがる。とっぷり暗くなってから、ようやく周りの歓声とともに戦車の隊列が現れる。私の安物のカメラではこの暗闇の中での撮影は無理だ。

日は暮れていく

暗がりの中を次々と通り過ぎる戦車や武器を搭載したトラックの列、それを歓呼をもって迎える市民の様子を1時間くらい見物したあと、朝鮮国際旅行社(KITC)直営のレストランで夕食となった。すでに8時を過ぎている。夕食では冷麺を選択できた。

歓呼する市民と観光客

この日の午後はなにがなんだかわからないまま、待機に大半の時間をとられた。金日成広場での式典が大幅に遅れ、午後3時ごろにはじまったせいだ。沿道で隊列が通りすぎるのを見たのもすっかり夜になってから。しかし雰囲気だけは味わうことができた。

金日成広場での式典やパレードの様子はホテルに戻ってからテレビで見た。

テレビに映し出される金正恩

2015年11月1日日曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 八日目(10月9日)

朝早く、6時過ぎに平壌行きの列車に乗り込む。元山・平壌間は車では往復したことがあるが、列車では初めて。舗装の状態が悪くてひどく揺れた5年前の車での移動に比べ、列車の旅は快適だ。沿線の風景も興味深い。

沿線の風景 1
 
沿線の風景 2

沿線の風景 3

沿線の風景 4

沿線の風景 5

沿線の風景 6

沿線の風景 7
 

途中での一旦停止をはさみ、列車は午後2時前に平壌に着く。羊角島ホテルに再度チェックインしてから、なじみの朴氏が運転する専用車で地下鉄に向かう。平壌観光の定番、地下鉄乗車ツアーの始まりだ。私にとっては確か5回目の地下鉄試乗。前回の2013年にも乗車区間が以前より少し延長されていたのだが、今回は全区間を乗る。

我々のグループだけではなく、他の個人旅行者何名かも交えての乗車だ。外国人だけ隔離されて専用の車両に乗るのではとおそれていたが、平壌市民と一緒の車両に乗ることができた。ここで「北朝鮮2014」のブログに書いた記事を訂正しておきたい。「ガイド(案内員)について」の項で「女性2人組のガイドというのも目にしたことがない」と書いたが、今回、ある個人旅行者を2人の女性がガイドしているのを目撃した。

下車した駅は5つか6つだっただろうか。車内での写真撮影は比較的自由だった。しかし、車内である親子に「写真を撮っていいか」と尋ね、承諾を得たうえで子供の写真を撮ろうとしていたら、韓ガイドがあわてて制止した。「車内での人物の写真はダメ」というわけだ。

プラットフォームで動画を撮影していると、見習いガイドの深が近づいてきて、「平壌の人々は地方の人々に比べてやはり垢抜けしているだろう」という。正直、そう垢抜けしているとは感じられなかったが、「そのとおり。どこの国でも都会は田舎より垢抜けしている。私は田舎住まいだから、peasantだ」と答えた。深は「いやいや、あなたはそんなことはない」と大急ぎで否定してくれたが、本音がどうだったかは定かでない。

地下鉄 1

地下鉄 2

地下鉄 3

地下鉄 4

地下鉄 5(Jonathan撮影)

夕食は羊角島ホテルのチャイニーズ・レストランで中華料理ということだった。みんなの期待が高まる。しかし、出てきた料理は中華というより朝鮮料理に近いような気がした。夕食の席で広島と長崎の原爆式典に出席したJeremyとMonishaのカップルに感想などを聞く。広島では安倍首相がやじられていたらしい。Jeremyは「安部は本当は日本の核武装を望んでいるのではないか」と言っていた。

レストランの中では朝鮮中央テレビのニュースが流れていた。画面にしかめ面をした金正恩が映し出される。私は思わず「He is angry」と声に出して言った。隣のMarkがプッと吹き出す。「He is ugly」と聞こえたらしい。あえて誤解を訂正することはしなかった。

チャイニーズ・レストランでの夕食風景

 

北朝鮮鉄道の旅2015 七日目(10月8日)

北朝鮮での初めての夜行列車体験。「ガタゴトいうリズムが心地よく、よく眠れた」という同行者もいたが、私は夜中に何回か目を覚ました。環境が変わるとどうしても眠りが浅くなるのは私の体質だ。朝の6時前には完全に目が覚めていた。


朝食はもちろん列車の中。午前10時ごろに元山(원산=ウォンサン)の駅に着いた。私が元山を訪れたのは5年前で、これが2度目の訪問となる。東明旅館(ドンミョンリョガン)にチェックインしたのち、元山の観光が始まる。

結構モダンな元山駅

まず訪れたのは日帝時代の元山駅。このときには説明がなかったが、あとで調べると、オリジナルではなく、復元されたものらしい。解放後に凱旋した金日成はこの駅から平壌に向かったという。駅のそばに「東洋旅館」があり、金日成が泊まったとされる部屋も復元されている。「東洋」とは日本語では「オリエント」を意味するが、中国語では「日本」を指すらしい(Lloyd談)。駅には日帝時代の時刻表や運賃表の掲示もあった。「パシニ 3」という蒸気機関車も展示されていた。「パシニ」とはおよそ日本語らしくなく、まがいものかとも思ったが、これもあとで調べると「パシフィック形の2」の略らしい。

日帝時代の元山駅

時刻表

旧元山駅に展示してある「パシニ」の蒸気機関車

元山の中央広場には金親子の銅像が立っているが、礼を捧げることはなく、通り過ぎただけだった。5年前も同じだった。平壌、咸興、清津では銅像の前で一礼をしたものだが、なぜか元山の銅像は無視されているようだ。

万景峰号が停泊している港を見ながら、メインの通りにある小さな美術館に入る。5年前にも訪れたところだ。ここに展示されてる絵画やポスターは購入可能だ。50ユーロ、100ユーロと結構高価だが、かなりの同行者が購入していた。米軍をやっつけている類いの、いかにも北朝鮮らしいモチーフに人気が集まっていた。

昼食は東明旅館でとった。煮魚は出たが、期待していた刺身は出なかった。

訪問先が限られていた咸興とは対照的に、元山ではいろいろなところを訪れる多忙なスケジュールとなっている。昼食後に向かったのは近郊の協同農場。2年前に沙里院の農場を訪れたときと同様、農場の案内人(中年の女性)の説明は、農業のやり方や技術にふれるのではなく、もっぱら金正日がいつここを訪れ、どのように指導したかに終始していた。柿の木が多くあるのも金正日(金日成だったかもしれない)の指導によるものらしい。

農場では、トウモロコシを周り一体に広げ、数人でその粒をとる作業が進行していた。これはこの時期の北朝鮮ではいたるところに見られる風景だ。


農場に付設されている幼稚園も訪れた。といっても外から園児たちを見ただけだが、私にとってはこれがこの農場見学のハイライトだった。この幼稚園を訪れた動画はYoutubeにいくつか上がっている。したがって園児たちにとって私たちが初めての外国人というわけではないのだが、特別な芸を披露するのではなく、特別に可愛くもなく、特別に着飾ってもいない普通の子供たちを見るとホッとし、懐かしい感じがする。たとえ演出された出会いであったとしても。


協同農場の子供たち(Jonathan撮影)

案内人のお宅も訪問した。家にいた若い2人の姉弟に朝鮮語で話しかけ、写真撮影の承諾を得る。中学生か高校生くらいだと思っていた娘さんが20歳だと知ってちょっとびっくり。

協同農場の家の中
子供と一緒に

続いて子供たちのための国際キャンプ場を訪れる。帰国してから調べると、正式な名称は朝鮮松涛園国際少年団野営所というらしい。「国際」を冠したキャンプ場だが、我々が訪れたときには、北朝鮮の子供たちしかいなかった。キャンプ場の女性ガイドの説明によると、外国の子供たちが訪れるのは7月下旬から8月にかけてであり、ロシア、中国、ブラジル、パキスタン、ナイジェリアなどから来るという。

キャンプ場のガイドと見習いガイドの深

旧元山駅も協同農場もキャンプ場も私にとっては初めての訪問先だった。5年前に来たときには何をしていたのだろう。通りや埠頭を散策しただけだったのかな。

夕方になると、10日の朝鮮労働党創設70周年に向けて前々夜祭のダンスが広場で始まった。元山の大学生たちによるダンスだ。5年前に元山を訪れたのが10月10日だったこともあり、このダンスを見るのは初めてではない。ツアー同行者の何人かも踊りの輪の中に入っていたが、私は遠慮した。

広場のダンス

ダンスを見ている女の子

夕食も東明旅館で。夕食には焼き魚と煮魚が出た。この日朝から姿を消していた韓ガイドが夕食時に現れる。元山出身の彼は実家に帰っていたらしい。

元山での夕食