よろしければクリックしてください。
にほんブログ村 旅行ブログ 海外旅行へ
にほんブログ村

2024年6月29日土曜日

メキシコ2024 メキシコシティへ戻る、帰国

 4月16日

トゥクストラ・グテイエーレスの空港を午後1時半に飛び立ったアエロメヒコ機は3時過ぎにメキシコシティに到着した。Uberタクシーで日本人宿のペンション・アミーゴまで行く。個室は空いておらず、ドミトリーに宿泊することになる。朝食付きで1泊180ペソ(約1800円)。5つのベッドがある部屋だが、22日(正確には23日の0時25分)の帰国日まで合計6泊したうち、後半の3日は私ひとりで使っていた。

夜中にトイレに起きることもあり、しかも下痢状態だから、個室を希望していた。だが、あまり同宿者を気にせずに過ごすことができ、しかも後半は私以外のベッドは空いていた。結果的には個室がフルだったことが幸いした。

ペンション・アミーゴに着いたこの日は日本人旅行者2人と夕食をともにした。2人とも30歳代(1人はひょっとすると20歳代)で私よりずっと若いが、こと中南米にかけては私より経験も知識も豊富だった。宿からかなり歩いた食堂に落ち着き、私は豚肉料理とビールを注文した。腹の調子もあり、料理もビールも少し残してしまった。しかし、この時点では、こうした料理を注文するだけの食欲はあり、夜中に吐くこともなかった。

豚肉とビール


4月17日~22日

これ以降、下痢と食欲不振に悩まされ、思うように観光できない日が続いた。宿の朝食はなんと受け入れるものの、昼食や夕食は食べる気にもなれず、食べても吐いてしまう日が4日くらいあった。このため、長い間歩くと極端に疲労した。

この期間を日時を追って記述してもあまり意味がないので、いくつかのエピソードと感想を挙げておくのにとどめたい。

(1)ペンション・アミーゴを選んだのは幸いだった。通常のホテルなら、部屋にこもってYouTubeでも見ながら過ごすしかなかったところ、この日本人宿では中南米を旅行する数々の旅行者に出会え、それなりに楽しい時を過ごすことができた。特に印象に残っているのは、同じ部屋で3日間を共有したO君だった。30代中半の彼は帰国子女だ。といっても米国や欧州からの帰国子女ではなく、トルコ生まれでトルコ育ちという珍しい経歴の持ち主。両親ともに日本人で、文化人類学者である父親の関係でトルコに住むことになったという。中学校まではアンカラの日本人学校に通い、高校と大学は現地の学校。アンカラ大学で考古学を専攻し、現在は考古学関係の職に就いている。

O君からはトルコに関して学ぶことが多かった。トルコ語は現在ではアルファベットで表記されるが、かつてはアラビア文字を使っていたとのこと。したがってトルコの歴史文献を解読するにはアラビア文字の習得が必須になる。ヒジャブを着用するかどうか、着用するにしてもどのように着用するか、男性の場合ならどのような髭をたくわえているかによって、その人の思想的政治的な傾向を推測できるという。

このほかカナダでワーキングホリディを終えて中南米を旅行しているカップルなど、毎日なんらかの刺激があった。

ペンション・アミーゴの壁画


(2)メキシコの人たちは総じて親切だった。宿の近くにある革命塔の展望台に登ったとき、街の眺望を背景に私の写真を撮ってくれたのは鼻の両脇にピアスをした若い女性だった。キューバへの便のチェックアウト時にオンライン申請を助けてくれたのも若い女性だった。どちらもこちから依頼したわけではない。

サンクリストバルはともかく、メキシコシティでも必ずしも英語が通じるわけではないのは意外だった。これまで海外で遭遇したメキシコ人はほぼ全員が流暢な英語をしゃべっていただけに。

メキシコのWork cultureは日本よりずっとリラックスしている。リラックスし過ぎの感もある。街の中では警官の姿をよく見かけたが、彼らがスマホをいじっている場面に何回も遭遇した。仕事上必要なスマホとはとうてい思えない。レストランの店員なども同じ。スマホの浸透の功罪を考えさせられる一幕だ。

(3)辛めのメキシコ料理に対する食欲がどうしても出てこないことから、和食を食べたくなった。メキシコシティは和食レストランに事欠かない。ふっくらとした白米と温かい味噌汁なら胃に優しく、力もつくのではないかと思い、ネットで評判のいいWanWanという和食レストランまでUberタクシーを飛ばした。で、注文したのがトンカツ定食とアサヒビールの小瓶。ところが期待とは逆に、トンカツの肉もご飯も固い。普通なのは味噌汁だけ。なんとか完食したが、宿へ帰ってすべて吐いてしまった。帰りのUberタクシーの中で吐かなかったのは幸いか。

トンカツ定食(約3000円)

(4)観光をまったくしなかったわけではない。21日にはUberタクシーで「トロツキーの家」を訪れた。かなり広い敷地の中、トロツキーが実際に使っていた書斎や寝室を見ることができる。入場料は70ペソ(約700円)。こんなところを訪れる人などほとんどいないだろうという予想に反し、かなりの数の訪問者を見かけた。子供の姿もちらほら。

トロツキーの家の入口

トロツキーの家の書斎

(6)最終日の22日になっても下痢は続いていたが、やっと何かを食べようという気になってきた。メトロポリタン・カテドラルへ行く途中のカフェでトマト・スープとビールを注文。このトマト・スープはほんとうにおいしいと感じた。そのあとで食べた屋台料理(名前は不明)もしっかりと胃の中に収まった。

トマト・スープとビール

(7)成田への帰国便は23日の0時25分発。14時間半に及び長距離飛行だ。下痢が完治しておらず不安だったが、無事持ちこたえ、なんとか旅を終えることができた。ただし、下痢は帰国後も1週間くらい続き、旅行前に比べて体重は5キロほど減った。

メキシコ旅行のつもりが、後半の9日間の体調不良のために、キューバのほうが印象に残る結果となってしまった。まあこれも運だし、ひとつの経験として思い出に残しておこう。

2024年6月26日水曜日

メキシコ2024 サンクリストバル観光

 4月14日

下痢はまだ治っていない。せっかくの朝食もコーヒーとパンだけで済ます。時間を勘違いし(スマホの現地時間表示が間違っていたことが原因)、約束の9時15分より1時間早く集合場所に着いた。昨日の客引きの女性がいたので、「お腹の調子が悪いから、今日のツアーはキャンセルして、明日にしたい」と伝えたが、キャンセルするためには医師の証明が必要という。下痢といっても、それほどひどい症状ではないので、思い切って予定どおり今日参加することにした。翌日にも症状は改善どころかより悪くなっていたから、結果的にはこの選択は正しかった。

総勢12名のツアー客を中年男性のガイドが率いる。ガイドには「下痢ぎみだから、トイレがあったら教えてくれ」と伝えておいた。ほとんどがメキシコ人のツアー客のなか、ニュージーランドから来た高齢の女性2人も混じっていた。英語の説明が必要なのが私だけではないことにほっとする。

マイクロバスで30分(時間は確かでない)ほどかけ、最初の訪問地であるチャムラ村に到着する。日曜ということもあり、教会の前の広場には市が開かれ、おおぜいの人が集まっていた。興味深い風景だが、ガイドからは「写真や動画の撮影は控えるように」と釘をさされていた。特に教会の中での撮影は絶対に不可とのこと。教会は一応カソリックらしいが、これまで見たどの教会とも異なる。失礼を顧みずに言えば、「異様」ともいうべき光景だった。広い教会の内部では、乾燥した草の上に50組以上の家族がそれぞれに輪を作って座り、床に立てた無数の蝋燭がそれを照らし出す。動画に撮れなかったのが残念だ。

教会


ツアー客のひとり、チワワ州出身で現在は米国のテキサス州に住む女性と少し話す。米国とメキシコの二重国籍者である彼女は英語も堪能だ。チワワはメキシコ最大の州で、林檎の産地だとか。

テキサス在住のメキシコ人女性とツーショット

ツアーは続いてシナカンタン村へ向かう。これは先住民の織物の村だ。が、ガイドの説明は悲しいものだった。「手間暇をかけてつくりあげていくこうした伝統的な織物が大量生産の時代に生き残れる可能性は低い。このなりわいもやがては消えていくだろう。」

織物の実演

工房に入って織物の実演を見学。陳列されている織物を購入することも可能だ。地元の酒の試飲やタコスの試食などもあり、ツアーは終了、2時過ぎにサンクリストバルに戻ってきた。ツアー中、2度トイレを利用したが、腹の調子はそう悪くはない。このまま回復するといいのだが。

と思ったのは甘かった。その夜も下痢の症状に苦しめられた。

4月15日

メキシコシティへは明日16日に帰ることとし、Trip.comを通じて帰路の航空券を購入した。便利な時間帯を選んだため、3万2千円と高額だった。下痢はまだ続いている。もっともそう頻繁にトイレに駆け込む必要はなく、町を歩き回るには支障がない。日本人がやっている豆腐屋があるというので訪れたかったが、グーグル・マップで調べるとこの日は休業だった。代わりに市場などをぶらついた。かなり暑く疲れたので、スターバックスで休憩した。

市場

観光にあまり支障がないとはいえ、腹の調子はいまひとつ。昼に食べたものを路上で吐いてしまった。幸い、すでに日が暮れており、人通りも少なかったため、人目に付くことはなかった。あとで考えると、このときに絶食していれば、下痢の状態をあとあとまで引きずることなく回復していたかもしれない。

旅行代理店に立ち寄り、明日サンクリストバルからトゥクストラ・グテイエーレスの空港へ行くための乗り合いタクシー(Taxi collectivo)を予約しておく。タクシーは宿まで迎えに来てくれる。代金は250ペソ。

2024年6月24日月曜日

メキシコ2024 サンクリストバル・デ・ラスカサス到着

 4月12日

サンクリストバル・デ・ラスカサスはメキシコ南部のチアパス州にある観光地だ。チアパス州は私が以前から知っている数少ないメキシコの地名のひとつであり、少なからぬ好奇心があった。メキシコでもっとも貧しい州とされるチアパスではZapatista(サパチスタ)と呼ばれるゲリラ組織が活動し、一時メディアを賑わせていた。サパチスタの中心になっているのは先住民であるマヤ人(インディオ)だ。サパチスタの支配地域は今も存続しているらしい。

チアパス州の州都はトゥクストラ・グテイエーレスだが、観光地としてはサンクリストバルのほうが圧倒的に有名。サンクリストバルを目的地として決め、メキシコシティからトゥクストラ・グテイエーレスまでの片道航空券をTrip.comを通じて購入した。アエロメヒコの便で片道約2万4千円。この半額くらいの安い便もあるが、時間帯などを考慮して、あえてこの便にした。加齢とともに「金で楽を買う」が旅のスタイルになってしまった。

13時30分発のアエロメヒコ便は1時間遅れで離陸し、2時間近くのフライトでトゥクストラ・グテイエーレスの空港に着陸した。空港から1時間半ほど小型バスにゆられてサンクリストバルに着く。宿は予約していない。バスを降りたところにほど近いHotel Tres Mariasに投宿した。朝食付きで1泊450ペソ(約4500円)。

Hotel Tres Marias

ホテルから歩いて5分ほどの小さな食堂で夕食をとる。英語はまったく通じないが、なんとかBisteck a la Mexという牛肉(?)料理とコーラを注文。確か100ペソ(約1000円)だった。ここでも物価は高い(というより円が安すぎる)。

Bisteck a la Mex

4月13日

Hotel Tres Mariasの朝食はまずまずだった。女性の従業員が3、4人いたが、全員マヤ人だった。メキシコシティのホテルではほとんどが白人もしくは混血だったのとは対照的だ。

Hotel Tres Mariasの朝食

サンクリストバルの中心はカテドラルのあるソカロという地区だ。Hotel Tres Mariasは悪くないホテルだが、難点はこの中心地まで遠いこと。歩いて20分以上かかる。サンクリストバルの観光の目玉はチャムラ、シナカンタンといった先住民の村を訪れるツアーだ。ソカロに到着し、まず旅行代理店を探す。ハバナとは異なり、ソカロには旅行代理店が軒を連ねている。代理店に入る前に、路上で客引きをしている中年の女性につかまり、彼女の店で明日のチャムラ・シナカンタン巡りのツアーを予約することになった。4時間ほどのツアーで代金は250ペソ。明日9時15分にカフェの前に集合とのこと。

カテドラルの前の広場を出発点としてあてもなく散策し、街並みを見る。サンクリストバルはまっすぐな道が碁盤目状に交差するこぢんまりとした町だ。目に付くのはマヤ(インディオ)の人たち。メキシコシティとはひと味違い、これがほんとうのメキシコかもしれない、ここまで足をのばしてよかったと思う。

カテドラルとその前の広場

賑やかな通り

マヤ系の人たち

いったん宿に戻り、一休みしてから、夕食を求めて外に出る。ホテルから15分くらい離れたところにある小ぎれいなレストランに入り、豚肉料理とビールを注文する。合計で300ペソ(3000円ほど)と、メキシコでこれまで食べたなかで最高の価格だ。客が少ないにもかかわらず、忘れられたせいか、かなり待たされた。

豚肉料理

この料理がくせものだった。宿へ帰ったあと、すべて吐いてしまい、下痢になってしまった。肉にはちゃんと火が通っていたから、生野菜が悪かったのだろうか。明日のツアーが心配だ。

2024年6月22日土曜日

メキシコ2024 キューバから戻る

 4月10日

ハバナからのアエロメヒコ便は19時にメキシコシティに着いた。2日後の12日にはメキシコ南部チアパス州のサンクリストバル・デ・ラスカサスへ行く予定で、すでに航空券を購入してあった。つまり今回メキシコシティには10日から12日まで2泊することになる。この2日間の宿泊にはいわゆる日本人宿であるペンション・アミーゴを利用するつもりだった。これまでメキシコでもキューバでも日本人旅行者には誰一人出会っていない。日本人が恋しいわけではないが、中南米旅行の情報をほしかった。

「ペンション・アミーゴ」といってもUberの運転手には通じないかもしれない。グーグル・マップを参照して、ペンション・アミーゴと至近のHotel Viva Mariaを指定し、Uberで向かう。ペンション・アミーゴはViva Mariaから歩いて2、3分。門扉に日本語で大きく「ぺんしょん あみーご」と書いてある。呼び鈴を押すが応答がない。時刻は夜の9時過ぎ。コロナのせいで閉鎖してしまったのかもしれない。

日本人宿のペンション・アミーゴ


夜も遅いので、とりあえずHotel Viva Mariaに泊まることにした。2泊で800ペソ弱(約8
000円)。朝食は付かない。

4月11日

朝10時過ぎに再びペンション・アミーゴを訪れる。今回は呼び鈴に反応があった。門を開けてくれたのはメキシコ人の中年女性で、日本語で応対してくれる。部屋を見せてくれるようにお願いし、中へ入る。中年の日本人男性が2人いたので、しばらく話す。彼らの話を聞く限り、ペンション・アミーゴはなかなかいい宿らしい。メキシコ人女性(マリアさん)にサンクリストバル・デ・ラスカサスから帰ってきたときにお世話になりたいと伝えておく。

今回もメトロポリタン・カテドラルまでぶらぶらと歩く。3月28日に訪れたときには大聖堂前の広場は閉鎖されていたが、今日は開放され、多くの屋台が店を出していた。

カテドラル前の屋台群

そのうちのひとつを選び、辛くないことを確かめたうえで注文した。80ペソ(800円)で、まずは満足できる味。Tlayudaという名前の料理らしい。あとで判明することだが、ここは観光スポットなのでこの値段だが、街なかの屋台で食べればもっと安い。

Tlayudaで昼食

宿へ戻る途中、路上でカナビス(大麻)のキャンペーンをやっているのを見かける。マリファナを吸引している人たちが集まっている小さな公園もあった。公園の写真を撮ろうとしたところ、制止された。メキシコやキューバで写真撮影を制止されたのはこのときだけだ。メキシコでは今年の3月に大麻が合法化されたとのことだが、公的な場での吸引はまだデリケートなのかもしれない。

カナビスを巡る何かのキャンペーン(大麻の娘たち?)

夕食はいつものとおりセブンイレブンのサンドウィッチとコーラで済ます。明日は空路でサンクリストバルに向かう。

2024年6月18日火曜日

メキシコ2024 メキシコシティ到着からキューバへ向けて発つまで

スペイン語ができないために躊躇していた中米への旅だが、スペイン語を習得するまで待っていれば一生行けないことなる。ということで訪れたメキシコだが、後半に体調を壊したこともあり、ついでに出かけたキューバのほうが印象深い結果になった。キューバについてはすでにこのブログで報告済み。ここではメキシコ旅行を簡単にまとめておこう。

3月27日

成田からアエロメヒコの直行便で約11時間かけ、現地時間の朝8時過ぎにメキシコシティ国際空港に到着した。円安になるはるか前に入手していた200ドルをペソに両替し、AT&TのSIMカードを購入する(5GBで30日有効、約17ドル)。続いてBooking.comで予約していたHotel MetropolへUberタクシーで向かう(200ペソ)。2泊で約17000円のこのホテルを選んだのはメキシコシティの中心部に近かったためだ。

ホテルに着いたのは10時過ぎ。長いフライトのあと、すぐにでもベッドに横たわりたいところだが、チェックインは3時からとのこと。外に出て、観光客目当てのレストランで、タコス2つとコーラを注文する。1200円ほど。高い。しかもおつりをごまかされた(不注意の間違いかもしれないが、作為的と考えたほうが自然)。100ペソ札を受け取るはずが、50ペソ札だったのだ。レストランを出てしばらくしてから気づいたので時遅し。

セブンイレブンでサンドウィッチと乳飲料、ミネラルウォーターを購入して夕食とする。これでも700円をオーバーしていた。

Hotel Metropol

3月28日

予想外の物価高に怖じ気づき、この日は3食ともセブンイレブンのサンドウィッチと飲み物で済ませた。

時差のせいか、昨夜は疲れているにもかかわらず、よく眠れなかった。

ホテルから20分近く歩きメキシコシティ最大の観光スポットともいうべきメトロポリタン・カテドラルを訪れ、人で混み合うショッピング・ストリートを通り抜け、中華街(唐人街)も垣間見た。とにもかくにもメキシコの土を踏み、空気を吸ったわけだ。

メトロポリタン・カテドラル

唐人街

3月29日

明日はキューバへ向けて発つ日。フライトは朝の8時35分。朝早くのチェックインに備え、空港近くのWe Hotel Aeropuertoを予約しておいた(約13000円)。

Hotel Metropolをチェックアウトし、タコスとコーラで昼食をとってから、UberでWe Hotelに移動した。

We Hotelから空港までは徒歩で行けると踏んでいたが、かなり時間がかかるらしい。幸い、ホテルから無料のシャトルバスが出ている。明朝6時のバスを予約しておいた。幸い、昨日から普通に睡眠をとれるようになっていた。

(3月30日から4月10日まではキューバ滞在のためにメキシコ編は空白になる。)

2024年6月11日火曜日

キューバ2024 十二日目(メキシコへ戻る、若干の感想)

 4月10日

今日はメキシコシティへ戻る日だ。フライトは17時15分。11時半にホステルをチェックアウトし、空港までのタクシーを手配してもらう。30ドルとのこと。空港から市内へ来るときは25ドルだったから、少し高いが、ここで5ドルを値切る気はない。

ホステルに荷物を預けて外へ出る。歩いて10分ほどの革命博物館へ行く。受付はいたが、なぜか中へ入れない。スペイン語なのでよくわからないが、改修中だったのだろうか。

革命博物館


ホステル付近の風景

ホステルに戻って少し待つと、感じのよい青年が運転するタクシーが約束の1時半ちょうどに迎えに来た。空港内でハンバーガーとコーラの昼食をとる。トラブルの噂も聞くハバナ出国だが、すべてスムーズに進行し、特に問題もなく出国できた。アエロメヒコ便は定刻通りハバナを飛び立ち、3時間半のフライトでメキシコシティに着いた。これでキューバ旅行の終了。

ハバナ空港

メキシコのついでに訪れたキューバだが、行った価値は十二分にあった。いくつかの印象をランダムに挙げておこう。

(1)日本の外務省の資料によると、キューバの人口構成はヨーロッパ系25%、混血50%、アフリカ系25%ということだ。私の印象もほぼこの統計に符合している。メキシコやグアテマラなどとは異なり、インディオ系はほぼいない。その代わり、奴隷として連れてこられた黒人の末裔が人口のかなりの部分を占める。カリブ海の他の国も似たような事情かもしれない。表面的には人種間の軋轢はあまりないようだが、実際のところはわからない。ガイド、ホテルの従業員、クラシック・カーの運転手など、観光客を相手をする場面では白人の割合が高いように感じたが、黒人もいないわけではない。

(2)ハバナでは音楽があふれていた。録音した音楽ではなく生の音楽だ。観光客向けのレストランだけではなく、街角のいたるところでギターやコンボの演奏を耳にした。ひとりの場合もあれば、3、4人の集団の場合もある。演奏者は中高年の男性が多かったように思う。日本でも流行ったブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブを生で楽しむ機会が遍在しているのがハバナだ。音楽があれば、当然ダンスもある。ダンスを目にする機会も多かった。

ストリートの音楽とダンス

(3)キューバでの両替レートは一定していない。昨日は1ドル=300ペソで両替したのに今日は320ペソ。昨日ぼられたとは限らない。ぼられた可能性もあるが、インフレのおかげで実際にペソの価値が下落しているのかもしれない。ことほどさようにインフレが進み、物価が上昇しているなか、キューバ人の生活は苦しく、明るくなる兆しも見えない。だが、こうした現実と対照的にキューバの人たちは陽気でフレンドリーだ。夕方、人々は戸口に座り、話し込んでいる。私のような外国人が通ると声がかかる。子供たちも路上で遊んでいる。日本では失われた「路地での生活」が今も生きているのだ。スペイン語を勉強してこなかったのが悔やまれる。スペイン語がある程度理解できれば、通りにたむろしているおじさんやおばさん、おじいさん、おばあさんたちとどんなにか興味がある会話を交わせたことか。

(4)街のところどころに「2+2=5」という落書きを見かけた。 何を意味するのか不可解だったが、帰国後にネットで調べると、これはジョージ・オーウェルの小説「1984」から来ているらしい。この小説には自由とは2+2が4であると言える自由である」という一節がある。だとすれば、この落書きはプロテストの落書きといえる。

2+2=5

(5)キューバ旅行中、日本人の姿をひとりも見かけなかった。韓国人にも出会わなかった。中国人は多いだろうと予想していたが、ウォーキング・ツアーで出会ったカップル(彼らは米国在住)以外には、中国人男性ひとりから声をかけられたのみ。相対的に多かったのがロシア人観光客だ。市内ツアー中には葉巻の店でロシア人団体に遭遇し、少し言葉を交わした。宿を探ししているときには、「キューバもロシアと同じ独裁国だ」と言うロシア人のソロ旅行者に会った。キューバはロシア人が心おきなく旅行できる数少ない国のひとつのようだ。

2024年6月10日月曜日

キューバ2024 十日目、十一日目(ハバナ)

 4月8日

朝、ホステルに洗濯を依頼する。ジーンズとシャツ、まとめて5点。5ドルで引き受けてもらう。少量の洗濯で5ドルは高いが値切る気はなかった。そもそもこのくらいの衣類なら、自分の部屋で手洗いできる。だが、客がほぼ私だけのこのホステルにいくらかカンパしたい気持ちがあった。

あてもなくハバナを歩き回る。昼に何を食べたか思い出せない(昼食を抜いたのかもしれない)。観光客用のカフェでカプチーノを飲んだことは記録に残っている。500ペソだった。

この日は4時半からの”Free Walking Tour Havana”なるウォーキング・ツアーに参加した。ガイド付きの市内ツアーはすでに2日前に経験しているが、英語によるツアーなら参加者も多いだろうし、またひと味違ったものになるだろう。

集合場所のセントラル・パークに集まったのは20人ほど。これが4、5組に分かれ、それぞれガイドに導かれて街を探索する。私は中国人の若いカップルとカナダ人の男性3人のグループに加わった。ガイドは若い女性で、本職は大学の言語学の講師らしい。

予想通り、2日前とほぼ似たようなコースをたどる。Old Town Squareで解散となり、ガイドにチップとして10ドルを渡す。

ウォーキング・ツアー

中国人カップルは米国のシカゴ在住。ツアーが終わったあと少し話す。「中国人」といっても男性のほうは米国生まれだ。どうりで達者な英語だった。男性は米国で薬剤師をやっており、女性のほうは杭州出身。米国でのアジア人に対するヘイト・クライムについて尋ねると、「カリフォルニアやニューヨークではともかく、シカゴではまったく問題ない」とのことだった。男性は米国に対してかなり批判的で、世界各地の戦争は米国が関与することによって発生していると言っていた。中国政府に対してどう思っているかは聞きそびれた。もうひとつ聞き忘れたのは、「アメリカ人がどうしてキューバに観光で入れたのか」ということ。男性は米国籍だろうし、米国国籍者は観光ビザを取得できないはずだ。

中国人カップル

ホステルに戻り、街角で購入した170ペソのピザとセブンアップで夕食とする。

4月9日

朝食後、海岸線を散歩する。

ハバナの海岸

海岸線から西の方向に歩く。観光スポットとは逆の方向だ。このあたりは古い建物がことのほか目に付いた。ゴミも多い。

古い建物(1)


古い建物(2)


古い建物(3)

古い建物(4)

ゴミ

相変わらずさかんに声がかかる。ほとんどが"Change money"。こちらが日本人だとわかると、野球選手の名前が挙がる。もっとも多いのは「マツサカ」だった。マツサカは5、6回聞いた。「イチロー」や「オオタニ」を聞いたのは1、2回。

Old Town Squareに戻る。昨日ガイドから「モヒートを飲むならここ」と推奨されたレストランがOld Twon Squareにあったからだ。しかし、それとは別のレストランからライブ演奏が聞こえてきたので、そちらに入る。時刻はすでに3時。トリニダーの民宿で食べたロパ・ビエハとモヒートを注文する。演奏されているのはベサメ・ムーチョ。完全に観光客用だ。

ハバナのレストランで聞くベサメ・ムーチョ


料理がやって来る。プレートには日本の国旗がはさんである。そういえば注文時に「どこから来たのか」と聞かれ、「日本」と答えておいた。モヒートと併せて14ユーロだったと思うが、確かではない。

日本の国旗がささった料理

夕食は路上で売っていたお菓子2湖(100ペソ)とビール、ミネラルウォーターで済ませた。

2024年6月9日日曜日

キューバ2024 八日目、九日目(ハバナ、ビニャーレス渓谷)

 4月6日

トリニダーから直接にハバナに戻ってきたため、今日からさらにハバナで4泊することになる。サンティアゴ・デ・クーバは無理としても、トリニダーとハバナの中間のどこか(たとえばサンタ・クララ)で2泊くらいしておけばよかった。さてハバナでどこへ行けばいいのか、何をすればいいのか。

目的もなくハバナを散策する。観光のメインストリートであるObispo通りの入口にInfoturというオフィスを見つける。名称からしてツーリスト・インフォメーション・センターらしい。中に入る。予想通り、観光客に情報を提供するオフィスだった。ハバナからの日帰りツアーについて問い合わせたところ、ビニャーレス渓谷(Viñales Valleyを勧められる。ハバナから110Kmほど離れており、料金は60ドルとのこと。検討には値するが、その場では決めずInfoturを出る。

Infotur


昼食はObispo通りのレストランでとった。ハバナの観光客向けのレストランの常でライブ演奏付きだ。肉(チキンだったかな)料理とモヒートで10ドル。料理は可なし不可なしだったが、ライブ演奏はよかった。

レストランのライブ演奏

夕方になり、再びInfoturに立ち寄り、ビニャーレス・ツアーへの参加を申し込む。代金の60ユーロは明日運転手に払ってくれとのことだった。隣の席でトルコ人の男女がツアーの相談をしていた。この男性のほうも明日のビニャーレス・ツアーに参加するようだ。

4月7日

8時にビニャーレス・ツアーの車が迎えに来る。車はもう一カ所立ち寄り、昨日Infoturで見かけたトルコ人男性を拾う。今日のツアーはこの2人だけ。運転手はビニャーレスを車で巡るだけで、ガイドをつとめるわけではない。

ハバナから2時間半ほど走ったところで、最初の景勝地(ビュー・ポイント)に着いた。絶景とまではいかないが、まずまずの眺め。

ビュー・ポイント

ここでトルコ人男性と話す。イスタンブール在住の建築家で、45歳独身。旅の経験はそこそこあるようだ。3か月後に日本を訪れる予定らしい。3か月後といえば7月だ。7月は暑いから避けたほうがよいと助言するも、「暑いのは好きだから問題ない」と言う。

トルコではつい最近地方選挙があり、エルドワン大統領の与党(AK党)が後退、野党の勝利が伝えられていた。これを話題にすると、必ずしも英語が得意ではないトルコ人男性(名前を聞いていたが忘れてしまった)はGoogle翻訳を使って自分の考えを日本語で表示した。スマホの画面には「私は宗教的ではありません。宗教より人権や民主主義を擁護したい」という主旨が示されていた。つまりは野党支持者なのだ。私も「(今回の選挙結果は)トルコにとってよく、世界にとってもよい」と、同じ意見であることを伝える。

これで男性との距離がずっと近くなった。

続けて葉巻農園に向かう。葉巻を乾燥している作業場を見学したあと、葉巻の説明を聞く。試しに吸ってみる機会もあったが、私は辞退した。

煙草の葉の乾燥

葉巻のあとは洞窟の中の探索。小舟に乗って洞窟の中を巡る。これは私にとっては試練だった。薄暗い中ででこぼこ道を歩くのは危険きわまりない。

洞窟の中

洞窟を出てホッとしたところで昼食タイム。レストランに入ったのは2時過。ランチはツアー代金に含まれていない。肉料理とソフトドリンクを注文して12ドルだった。トルコ人男性と併せて二人分の料理が運ばれてくる。量が多い。多すぎる。とうてい食べきれず、半分近くを残してしまった。食糧危機が伝えられるキューバでの出来事。

トルコ人と一緒に昼食

ツアーはまだ終わりではない。壁面に彩色された絵が描かれている場所に行く。なんとも不思議な光景だ。絵がないほうがずっといい。

壁面の絵画

ツアーをすべて終えてハバナに帰ったときには7時を過ぎていた。トルコ人男性と知り合いになり、いろいろと話したことがこのツアー最大の収穫だった。

夕食は今日もまたテイクアウトのハンバーガーで済ませた。

2024年6月7日金曜日

キューバ2024 六日目、七日目(ハバナへ戻る、市内ツアー)

 4月4日

手配してもらっていた乗り合いタクシーが8時15分に迎えに来た。トリニダーでの滞在を心地よいものにしてくれた民宿のオーナーに感謝しておこう。

民宿のオーナー夫妻

タクシーはさらにほかの客3人を拾い、ハバナに向けて出発する。乗客の2人はコロンビア人のカップルだった。首都ボゴタの出身で、2人とも流暢な英語をしゃべる。

ハバナ近くで私だけタクシーを乗り換える。コロンビア人が通訳してくれたところ、「今乗っている車はハバナ空港まで行く。空港まで行ってからハバナ市内に行くのは遠回りだから、ここで別の車に乗ってくれ。料金を余分に払う必要はない」とのことだった。コロンビア人は今日帰国で空港まで行くらしい。

ハバナでの宿は決めていなかったので、とりあえず中心部のセントラル・パークまで送ってもらう。この近くに1泊35ドルのホテルがあることは調査済みだ。しかしそのホテルは満室だった。しばらく前から外は雨。雨の中で宿泊先を探さなければならい。再びLido Hotelに泊まるという選択肢はなかった。満足のいく滞在ではなかったからだ。結局、Lido Hotelと同じ通りにあるHostel Peregrindというホステルに泊まることにした。朝食付きで1泊35ドルで、ネットでの評判がよい。Wifiも通っていて、1日1ドルで利用できる。スマホにはSIMカードが入っているから、Wifiがなくてもネットにはつながる。だが、部屋の中ではモバイルの信号が弱く、またタブレットで動画を見たかったこともあり、1日1ドルでWifiのパスワードを購入した。

Hostel Peregrind


午後になり雨もやんだので、トリニダー行きを手配してくれたHotel Plazaへおもむき、明日の英語ガイド付きの市内ツアーに申し込んでおいた。料金は20ドル。

例によって昼食は抜き、ハバナ2日目と同じ店でハンバーガーとビールをテイクアウトして夕食とした。

4月5日

Hostel Peregrindの朝食はまずまずだった。Lido Hotelよりずっといい。宿泊客は私のほかにもう一人いるようだったが、私の朝食時には姿を現さなかった。

Hostel Peregrindの朝食

市内ツアーに参加するためにHotel Plazaに行く。9時にガイドが迎えに来た。ガイドは20代の女性。さらに近辺のいくつかの高級ホテルに立ち寄り、ツアー参加者すべてがそろった。合計9人。私のほかには、中高年のカップルが4組。なんと全員アルゼンチン人だ。

カピトリオ(旧国会議事堂)の周辺をしばらく歩いてから車で革命広場に向かう。カストロが数時間に及ぶ演説をした場所だ。

革命広場

ガイドはまずスペイン語で説明し、続いて私ひとりのために英語で説明する。スペイン語の説明のほうが長くなるのはやむをえない。

車で旧市街に戻り、観光のメインストリートともいうべきObispo通りを経て、カテドラル広場に至る。Obispo通りは観光客で賑わっている。ヘミングウェイが馴染みとしていたバーの前には人だかりがしていた。

さらにそこからほど近いOld Town Squareにまで足をのばす。この途中でモスレムらしき男性の姿を見かけた。おそらく外国人だろう。付近にモスクがあるとのこと。

キューバでは珍しいイスラム

観光もひととおり終わり、昼食となった。昼食はツアー代金に含まれていない。アルゼンチン人カップル4組のうちの1組は昼食をとらずにツアーを離れた。車でガイドが案内するレストランへ行く。時刻はすでに3時近く。

ライブ演奏付きのレストランで私が注文したのはシュリンプ(小エビ)。ビールと併せて26ドルだった。まずくはないが、シュリンプだけなのでちょっと単調だ。

小エビで昼食

ツアー同行者のアルゼンチン人たちは英語が話せない。知っている限りのスペイン語で隣席の初老の婦人に話しかける。ミレイ新大統領を好きかと尋ねると「ノー」の返事。話題をインフレに移すと「ひどいものだ」という表情で、「前の大統領が国からお金を盗んだ」と言う。私のスペイン語能力からして、相手の言うことを正しく理解したかどうかは不明。

車で旧市街へ引き返し、Hotel Plazaの前でツアーを離れる。別れ際にガイドにチップとして5ドルを渡す。

10ドル渡せばよかったとあとで後悔した。そのくらいこの若い女性ガイドにはお世話になった。大学でドイツ語を専攻したという彼女とドイツ語でも少し話してみた。ちゃんとしたドイツ語を話す。フランス語もしゃべれる。海外には行ったことがないという。どの国へ行きたいかと尋ねると、「ドイツ語を学んだからドイツへ行きたい」という答えだった。思わず「ドイツは人が冷たい(kalt)ぞ」と余計な一言をドイツ語で加えてしまった。

女性ガイド

ガイドによれば、キューバでは基本的に国に雇われる形で働く。彼女自身も公務員だ。平均月収は20ドルとのこと。あまりにも低い。一瞬聞き間違えたのか思った。20ドルでは今日の昼食の代金すら払えない。こうしたこともあり、多くのキューバ人は観光客などを相手に第2、第3の仕事をしているという。

ぶらぶらしながら、ホステルへ戻ったのは5時すぎ。昨日と同じ店でハンバーガーとジュースをテイクアウトし夕食とした。