よろしければクリックしてください。
にほんブログ村 旅行ブログ 海外旅行へ
にほんブログ村

2019年8月2日金曜日

沖縄戦跡巡り2019 三日目(南風原陸軍病院壕)

7月18日。

台風5号が接近しているため今日は暴風雨の予報だが、目が覚めたときには雨は降っていなかった。念のために伊江島行きフェリーの運行状況をネットで調べるが、全便欠航に変わりはない。万一運行していたとしても、島に渡って帰れなくなったらたいへんだ。那覇に戻るしかない。

那覇行きのバスは7時57分に座喜味の停留所に来る。オーナーは不在だから、鍵を部屋に残したままゲストハウスを出る。外は風は強いが、雨は降っていない。

伊江島行きをあきらめたため、今日から那覇で4泊することになる。宿は那覇の松山にあるホテルブライオンを予約した。初日に泊まったホテルランタナと同様、最寄りの駅は美栄橋だが、国際通りとは逆の側にある。

那覇バスターミナルに着いたのは9時過ぎ。台風の予報にもかからず、曇天のもと雨はまだ降っていない。ホテルにチェックインするには早すぎる。南風原(はえばる)町にある陸軍病院の跡を訪れることにした。南風原陸軍病院壕は一般に公開されており、ガイドの案内で内部を見学できる。都合よく南風原町行きのバスはこのターミナルから出る。

南風原に行く前にやっておきたいことがある。バスターミナルから歩いて5分ほどの沖縄バスの本社に立ち寄り、「おきなわワールドと南部戦跡巡り」ツアーの予約を変更することだ。明後日の20日にこのツアーを予約していたのだが、1日早く那覇に帰ってきたことから、これを明日のツアーに変更したい。

沖縄バスのツアー予約を変更し、ターミナルからバスに乗り20分余り、陸軍病院壕のある南風原町役場前に11時ごろに到着した。到着直前からバスの窓を雨だれがポツリポツリと叩きはじめた。バスを降りたとたん、雨脚が突然強くなった。風も強い。台風の風だ。広げた傘の骨がたちまち折れてしまう。

「役場前」というからには役場があるはずだ。雨に濡れながら大急ぎで大きな建物を目指すが、役場ではなく小学校だった。なにはともあれ、小学校の軒下でリュックからビニールの雨ガッパを取り出す。

役場は道路を挟んで小学校の向かいにあった。陸軍病院壕の情報を得るために役場に入った。役場の中は結構広い空間だが、フロントのデスクに1名の女性、その奥に1名の男性、2人しかいない。どちらも沖縄風のアロハシャツ(?)を着用している。

陸軍病院壕は南風原文化センターの管理下にあることは知っていた。 文化センターは役場から200メートルほど離れているとのこと。雨の中、文化センターに向かって役場を出る。「雨が止むまでここで待っていたらどうですか」の声がかかったが、いつ止むかわからないものを待つわけにはいかない。

雨ガッパの効果もなくびしょ濡れなりながら、文化センターにたどり着く。受付の女性が陸軍病院壕に電話で連絡してくれた(本来なら予約が必要)。

「飯上げの道」(ふもとの炊事場で調理された食料を病院まで運ぶ道)をたどり、7、8分かけて小金森と呼ばれる丘を越えれば陸軍病院壕20号だ。いくつもある壕のうちこの20号が一般に公開されている。

飯上げの道

壕の入口には男性1名と女性2名が詰めていた。男性は管理人で、女性はガイドらしい。入場料の300円を払い、ヘルメットと懐中電灯を渡される。女性ガイド1名の案内で壕に入る。天井は低く、床には水が溜まっている。この壕は自然のガマを利用したものではなく、ツルハシやシャベルを使って人の手で掘ったものだ。

壕の中には多くの傷病兵が詰め込まれ、医薬品が不足する中、麻酔なしで手術が行われたという。米軍の空からの攻撃にさらされながら「飯上げの道」を往復し、看護にあたっていたのは沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高女の教師・生徒からなるひめゆり学徒隊だ。

壕の入口

壕の中

壕の中を探索したのは10分余り。入口に戻ると、お茶とお菓子が用意されている。しばしの雑談。「訪問者の大半は私のような年配者ですか」の問いに、「いや、結構若い人も来ますよ」とのことだった。

文化センターに戻る。幸い雨は小降りになっている。文化センターでは沖縄戦や南風原町の歴史に関する資料を展示している。こちらも入場料は300円。飯上げのレプリカから始まり、沖縄の戦後の様子で終わる展示だ。南風原からの移民や南風原の戦没者に関する資料もあり、なかなか見応えがあった。

飯上げの再現

壕内での手術

南風原と沖縄戦

移民

小雨の中、文化センターをあとにし、那覇行きのバスを待った。バスの本数は多くない。30分以上待ったうえ、ようやく旭橋のバスターミナルに戻ってきた。

ゆいレールで旭橋から美栄橋に移動し、ホテルブライオン那覇にチェックインする。朝食付きで4泊21600円。1泊5000円強。値段の割には立派なホテルだ。

ホテルブライオン那覇

部屋で一休みし、外に出たときにはすでに4時を過ぎていた。幸い雨は止んでいる。美栄橋の食堂に入り、遅めの昼食(というか早めの夕食)をとった。沖縄にいるときはできるだけその土地特有の料理を食べたい。ということで豆腐チャンプルーを選んだ。680円。まずくはないが、まあ値段相応か。

豆腐チャンプルー

食後しばらくぶらぶら散策し、コンビニで若干の食料を買い込んで宿に戻る。雨に濡れた体をゆっくり休めたい。明日のツアーは8時30分発。8時15分に沖縄バスの本社に集合することになっている。

2019年7月31日水曜日

沖縄戦跡巡り2019 二日目(読谷村)

7月17日。

今日は読谷村(よみたんそん)に行く。読谷村には米軍の沖縄本島上陸地点となった渡具知(とぐち)海岸がある。1945年4月1日のことだ。この村にある2つのガマ(自然洞窟)も沖縄戦を語るうえ欠かせない。1つのガマは集団自決の場となり、もう1つのガマでは全員が生き延びることができた。

このほか飛行場の跡などもあるが、まっさきに行きたかったのは集団自決の場となったチビチリガマだ。

宿は読谷村の座喜味(ざきみ)に予約した。これは事前調査をちゃんとしていなかったことからする失敗。というのもチビチリガマがある波平(なみひら)集落は座喜味から遠く離れているからだ。しかも那覇から座喜味へ行くバスは本数が少なく、朝7時半のバスを逃せば午後の便しかない。

読谷村(座喜味)行きのバスは旭橋にある那覇バスターミナルから出る。旭橋はゆいレールの美栄橋駅から2駅離れている。7時半のバスでは早すぎる。12時過ぎのバスで行くことにした。

朝食をマクドナルドで済ませ、チェックアウトタイムの10時ちょっと前にホテルを出る。旭橋に着き、バスターミナルの近くの食堂で早めの昼食をとる。沖縄そばで650円。麺は固めで好みではなかったが、2枚のっていた豚の角煮(チャーシュー?)が舌の上でとろけるおいしさだった。

沖縄そばで早めの昼食


定刻どおりに那覇バスターミナルを出たバスは1時過ぎに座喜味に着いた。予約してあるホテル(ゲストハウス~時~)はバスの停留所から歩いて2、3分のところにあった。ホテルというより普通の民家で、2階がゲストハウスとなっている。ドアを開けると台所の流しが見える。受付らしきものはない。「ごめんください」と声をかけるが、誰も出てこない。呼びかけを繰り返す。すると障子の部屋から若い黒人が出てきた。

ほっそりした繊細な感じのこの青年、ゲストハウスのスタッフではなく、宿泊客だとのこと。ナイジェリア人で、jobのために今年の6月に沖縄に来たらしい。米軍で働いているわけでもないし、一体どんな仕事だろうか。聞きそびれた。宿のオーナーは不在らしい。

Booking.comの予約確認書に記載してあった連絡先を見て電話する。女性の声で応答があり、「ドアに鍵がぶら下がっているのが空き部屋だから、どれでも選んでくれ。夕方にそちらに行く」とのこと。おそらく到着時刻をあらかじめ宿に知らせておくシステムになっていたのだろうが、私がBooking.comからのそのメッセージを見落としていた可能性が高い。

ともあれドアに鍵がぶら下がっている2つの部屋のうちの1つを選び、荷物を置いて、チビチリガマに向かう。

といっても、グーグル・マップを見ると、チビチリガマは座喜味から5km以上離れており、徒歩では50分近くかかる。通りには車も少なく、タクシーを拾うのも困難。Uberも「ここでは使えません」というメッセージが出る。

時刻は2時ごろ。幸い時間だけはたっぷりあるので、ここはひとつ歩いてみるか。人も車もあまり通っていない道を波平集落に向かって歩き始める。

途中に忠魂碑を見かける。読谷村指定文化財の史跡(沖縄戦に関する遺跡)であり、説明板には「忠魂碑は日本の侵略戦争を美化する象徴として使われ、日本の歴史の負の遺産ですが、戦時中の風潮を今に伝える証人であり、今後の戒めとして村では2009年1月に史跡に指定しました」とある。

忠魂碑

さとうきび畑が広がる風景の中をさらに歩く。ときたま出会う人にチビチリガマへの道を尋ねながら。気温はおそらく30度を超えているだろう。

持ち前の方向感覚のなさから、グーグル・マップを見ながらもゆうに1時間半、ひょっとすると2時間近くかけてやっとチビチリガマにたどり着いた。「ハブに注意」という立て札を横目に谷間を下っていくとガマがあう。

米軍上陸時にこのガマに逃れた139名のうち82名が亡くなった。投降を呼びかける米兵に竹槍で手向かって殺されたケースもあるが、大半は自決だ。家族が家族を手に掛ける悲惨な場面が展開された現場だ。死者の過半数は子供だったという。

壕の入口には数多くの千羽鶴がつり下げられたり、岩の上に置かれている。犠牲者の氏名を列挙した石板もある。「これから先は墓となっていますので立ち入りを禁止します。ガマの中には私達、肉親の骨が多数残っています。皆様が、ガマに入って私達の肉親を踏みつぶしていることを私達は我慢できません」という警告の大きな札が入口をふさいでいる。なんとも厳しい。しかし、戦後このガマが何回も荒らされたことを考えると、こうした厳しさも納得できる。

チビチリガマの入口

チビチリガマ内部

犠牲者の氏名

チビチリガマから1Kmほど離れたところにシムクガマがある。このガマにはハワイ移民だった村民も何人か逃れており、彼らの説得のおかげで、1000人余りの村民が自決することなく米軍に投降した。

シムクガマの存在は知っていたが、チビチリガマから近い場所にあることは知らなかった。夏の読谷村を2時間近く歩いたあとでは、場所もわからないシムクガマまで行く気力は失せていた。また徒歩で宿まで戻ることを考えるとなおさらだ。

着用していたTシャツは汗で黒ずみ、喉はからから、腹も減っている。ガマ近くのスーパーで抹茶ラテと菓子パンを購入し、喉と腹を癒やしながら、帰路についた。スーパーでは今日の夕食のための食料も入手しておいた。宿の近くには食堂やスーパーはなく、ファミリーマートが1軒あるだけだ。

帰りはさすがに2時間もかからなかった。せいぜい1時間とちょっと。宿についたときには5時を過ぎていた。

しばらくするとゲストハウスのオーナーがやってきた。5、6歳の元気な女の子を連れた若い女性だ。チビチリガマまで歩いて行ったことを告げると、「宿においてある自転車を使えたのに」とのこと。遅きに過ぎる情報だ。ただ、風に吹かれるさとうきびの畑に沿って、道を聞きながら歩きに歩いた経験もそう悪いものではない。

「ゲストハウス~時~」はシャワー・トイレ共同の個室で1泊3150円。結構長く滞在している宿泊客もいるようだった。

明日は伊江島へ行く予定だが、天気予報をチェックすると、明日以降は大雨に暴風が加わっている。台風にひっかかったみたいだ。あわてて伊江島行きフェリーのホームページを調べる。「明日のフェリーはすべて欠航」とのショッキングな案内が。まあ伊江島に渡ってそこから帰れなくなるよりはましか。

予約していた伊江島の宿をキャンセルし、那覇へ戻るバスを調べる。いまのところバスの欠便はないようだ。8時近くに座喜味を通る那覇行きのバスに乗ることにした。

事前調査の不足から読谷村ではチビチリガマしか見ることができなかったが、はじめての沖縄とあればこれも仕方ないことかもしれない。

2019年7月26日金曜日

沖縄戦跡巡り2019 一日目(那覇到着)

海外には頻繁に出かけているが、国内はあまり旅行していない。47都道府県中足を踏み入れたのは半数に満たない。

国内を、それもできれば「辺境」をもっと探りたいとう思いから、手始めに沖縄を選んだ。ただ漫然と観光するのではなく、テーマを絞りたい。沖縄の離島を巡る旅こそ「辺境へ」にふさわしいが、はじめての沖縄にしてはちょっと敷居が高い。

今回の旅を「沖縄戦跡巡り」にしたのはこうした事情からだ。沖縄が戦場になったことは知っている。日本軍にとっても、沖縄の住民にとっても、そして米軍にとっても過酷で悲惨な戦いであったことについても活字や映像を通じていくばくかの知識はある。しかし、沖縄戦の背景と経過、実態についてはほとんど知らない。

もとより数日の旅行で沖縄戦の実態がわかるとは思っていない。しかし、昨年のイスラエル旅行がイスラエル・パレスチナ紛争を理解する出発点となったように、沖縄への旅が沖縄戦を知るきっかけとなればと思った。

旅行に先立って下記の書籍に目を通した。

沖縄戦全記録 NHKスペシャル取材班 新日本出版社
定本沖縄戦(地上戦の実相) 柏木俊道 彩流社
沖縄戦546日を歩く カベルナリア吉田 彩流社
沖縄の戦争遺跡 吉浜忍 吉川弘文館
僕の島は戦場だった(封印された沖縄戦の記憶) 佐野眞一 集英社インターナショナル

付け焼き刃ではあるが、これらの本を読むことで沖縄戦の一応の流れが頭に入った。Wikipediaの「沖縄戦」の項目も予想外に詳しく、役に立った。ただ、沖縄の地理を知らず、軍事知識も皆無であることから、地名や軍の構成については混乱したままだった。もうひとつ、これらはすべて日本人による日本語の資料で、米国や米軍の視点からの沖縄戦の記録に目を通さなかったこともくやまれる。

ともあれ7月16日午後12時15分発のJetstar便で関空を飛び立ち、2時半ごろに那覇空港に降り立った。帰りは22日の予定だ。天気予報によれば16日と17日の両日は晴れだが、その後数日は大雨が続く。航空券を購入した時点では予測できなかったことなので仕方がない。

7月16日。

空港のインフォメーションで地図などを入手したあと、那覇空港駅でゆいレールに乗車したのは3時ごろ。日が暮れるまでにはまだたっぷり時間がある。ホテルにチェックインする前に、首里城まで行き、第32軍司令部の壕を訪れることにした。ゆいレールの首里駅から首里城までは歩いておよそ10分。守礼門をくぐって左脇の石段を下ると左手に石板があり、司令部壕を日本語と英語で説明している。その横には第32軍と行動を共にした沖縄師範学校男子部の師範鉄血勤皇隊の碑もある。

第32軍の壕を説明する石板


師範鉄血勤皇隊の碑

石板を少しはいったところに鉄柵でふさがれた壕の入口がある。牛島満軍司令官や長勇参謀長は1945年5月27日にこの壕を去り、摩文仁に移動する。壕の内部はまったく窺い知れない。

司令部の壕

道を隔てた反対側には第32軍無線通信所の跡がある。こちらも内部を見ることはできない。

首里城を訪れる観光客は多いが、この石段を降りてくる人はほとんどいない。1人、2人と降りてくる人を見かけ、「おっ、同好の士か」と思ったが、壕の説明板や跡には目もくれず、そのまま先へ進んでいく。

首里城の内部に入るには820円の入場料が必要だ。内部の見学はまたの機会にし、予約してあるホテルに向かう。

予約していたのはホテルランタナ那覇。ゆいレールを美栄橋駅で降り、徒歩で約10分。那覇のメインストリートである国際通りに面した新しいホテルだ。1泊6000円。

ホテルランタナ

6時ごろにチェックインし、国際通りをぶらぶらする。通りのほぼ中央、一番目立つ場所にはディスカウントストアのドンキホーテがどっかりと店を構えている。

国際通りから第一市場に入り、その奥にある魚屋と兼業の飲み屋で沖縄ではじめての夕食をとった。注文したのは2000円のセットで、海ぶどう、もずく、刺身と飲み物2杯からなる。飲み物は生ビールの中と泡盛の水割りにした。海ぶどう(海藻の一種)を口にするのははじめて。おいしかった。かなり高価な食べ物らしく、量は少ない。店の女店員はどうも中国人らしい。客にも中国人の家族連れがいる。

2000円のセット

たった2杯のアルコールでいい気分になり、国際通りをさらに散策しながら、ホテルに戻る。明日はバスで読谷村に向かう。那覇から1時間くらいかかるようだ。

2019年4月24日水曜日

Victor Hugo: Quatrevingt-Treize

2019年4月15日読了
著者:Victor Hugo
刊行:1874年
評価:★★★★★
Kindle版(無料)

Quatrevingt-Treizeは「93」という意味だが、この場合にはフランス革命が頂点に達した1793年を指す。邦題は「93年」。昨年ツヴァイクのジョセフ・フーシェとマリー・アントワネットの伝記を読んだこともあり、この小説の背景となっているフランス革命やヴァンデの反乱に関するおおよその知識はあった。

だが、この小説はフランス革命の叙述ではなく、ヴァンデの反乱の帰趨を描くものでもないから、特別な歴史的知識がなくても十分に楽しめる。実際、ヴァンデの反乱など聞いたこともない子供のころ(たぶん小学六年生ごろ)、少年少女向きに簡略化された「93年」を読んで非常におもしろかったことを覚えている。おもしろかったという感想は頭に残っているが、どのようなストーリーだったかはすっぽり記憶から脱け、登場人物も誰一人として覚えていなかった。

数十年の歳月を経て、あらためてオリジナルのフランス語で読み、子供のころの感動を追体験できるかどうか。期待と不安を交えながら読み始めた。

19世紀の作品だから、すらすらと読めるわけではない。辞書に出てこない単語も少なくない。だが、予期していたよりずっと読みやすい。細部ではわからないところが多々あるが、ストーリーの流れを追い、主要な登場人物の性格や思想を把握するうえで支障はない。

ユーゴーの作品を原文で読むのはNotre-Dame de Parisに続いて2冊目だ。Quatrevingt-TreizeはNotre-Dame de Parisよりも近づきやすかった。Notre-Dame de Parisではパリとノードルダム寺院の説明にそれぞれ1章が割かれている。いずれもストーリーには関係のない内容で、実はこれらの章はスキップしてしまった。

Quatrevingt-treizeでもストーリーとは無関係にConvention(国民公会)を説明する章が挿入されている。こちらのほうはちゃんと読んだ。途中でいやになることもなく、次の章につなげることができた。

Quatrevingt-Treizeは3人の人物を中心に展開する。ヴァンデの反乱を指揮する王党派(白)のLantenac、反乱鎮圧の任を負う革命軍(青)を率いる青年将校のGauvain、そしてGauvainを監視するために公安委員会から派遣されたCimourdain。この三者の間には浅からぬ因縁がある。LantenacとGauvainはブルゴーニュの貴族の出で、LautenacはGauvainの大叔父にあたる。CimourdainがGauvainを監視するのはこうした事情からだ。ところが元僧侶のCimourdainは革命前にGauvainの家庭教師であり、Gauvainに深い影響を与えるともに、彼に対して自分の息子のような愛着を抱いている(CimourdainをGauvainの監視役とした公安委員会はこの事実を知らない)。

LantenacとCimourdainはどちらも原理主義者だ。前者は王党派、後者は革命派という違いはあるが、常に非妥協を貫き、敵に対して徹頭徹尾無慈悲であるという点では共通する。彼らとは対照的に、若きGauvainはclémence(寛大さ、慈悲)をもって知られている。公安委員会が彼を監視しようとしたのは、Lantenacとの血のつながりに加え、このclémenceを危惧したためでもある。Gauvainは革命派ではあるが、revolutionよりもhumanité(人間性)を上位に置く。おそらくこれはユーゴーの立場でもあるのだろう。

商船を装ったイギリス製の軍艦に乗船したLantenacがブルゴーニュへの上陸を目指すところから物語は始まる。あるはずみで砲台のたががはずれ、くびきからはずれた大砲が船の揺れに乗じて甲板の上を暴れまくる。破壊への意志を持つ盲目の猛獣のように。この大砲の動きの描写がすばらしい。大砲が制御されたあとのLantenacの措置も意表を突く。冒頭から一気に物語りに引き込まれた。

子供のころあらすじを読んだとはいえ、すべて忘れ去っているから、新しい本を読むの同じだ。最初の数ページから最後の1ページまで、いや最後の数行に至るまで予測のつかない展開に心を躍らせた。

もちろんストーリーのおもしろさだけではない。ユーゴーの小説の魅力は、登場人物の情熱が「半端ない」ことである。LantenacとCimourdainの過激さは、Notre-Dame de ParisにおけるClaude Frolloの暗い情熱に通じるところがある。彼らの情熱(passion)は往々にして強迫観念(obsession)へと転化する。

英語版のWikipediaによれば、グルジアの神学生であったDzhugashviliは牢獄の中で「93年」を読み、Cimourdainに深く感銘したとのことだ。Dzhugashviliとはのちのスターリンにほかならない。考えてみれば、LantenacとCimourdainはその非情さにおいてスターリン主義者と言えなくもない。

同じく英語版Wikipediaによると、スターリン主義と対極にある米国の作家Ayn Randも「93年」の熱心なファンらしい。彼女の小説The Fountainheadの主人公Howard Roarkの一徹ぶりもLantenacやCimourdainを連想させる。

久しぶりに小説らしい小説を読んだ感激にしばらくは浸っていたい。そして次はいよいよLes Misérablesだ。こちらもKindleストアから無料でダウンロードできる。

2019年3月8日金曜日

ミャンマー・シャン州 九日目(帰国)

2月13日。

今日は帰国日だが、フライトは18時55分だから時間はたっぷりある。

8時少し前に朝食をとる。Beauty Land 2ホテルの朝食はトースト、卵、フルーツなどだが、前日にリクエストしておけばモヒンガーにすることもできる。モヒンガーはミャンマー特有の麺で、そうめんに似ている。3年前と同様、この日もモヒンガーを朝食とした。

モヒンガーで朝食

ホテルのチェックアウト・タイムは12時。荷物を部屋に残したまま外へ出る。ホテルから歩いて10分ほどのヤンゴン中央駅の東側一帯を探索するためだ。昨日訪れたダラ地区と同様、この地域も貧しい。

ダラ地区と似ていなくもないが、ダラ地区のような広がりはない。いくつかの細い道路から構成された小さな地域だ。

ダラ地区とは異なり、ここでは好奇心だけで訪れた外国人を笑顔と挨拶で迎えてくれるようなことはない(これはまあ当たり前のことだ)。だからといって敵意を示すこともない。要するに無関心なのだ。ずうずうしいことこのうえないが、無遠慮に写真や動画を撮りながら散策する。一度だけ、路上でサイコロ賭博に熱中している人たちを撮ったときには、身振りで「撮るな」と注意された。

中央駅東側(その1)

中央駅東側(その2)

中央駅東側(その3)

中央駅東側(その4)

中央駅東側(その5)

中央駅東側を歩く

この地域を抜け出し、さらに歩くと、大音響の音楽が聞こえてきた。音につられて坂道を登っていく。お寺だ。レコードだと思っていたのはミャンマーの民族楽器を使ったライブだった。歌い手もいる。音楽を背景に中年の女性が踊っている。手の動きに特徴があるミャンマーの踊りだ。胸にはチップらしき紙幣が数枚留めてある。

お寺での踊り

座って見ていると、男性が英語で話しかけてきた。年に4回ほどこうした行事が行われているとのこと。どこから来たのかと聞かれたので、「Japan」と答える。「私の兄弟は日本で働いたことがあるので、日本語をしゃべれる。話してみるか」とスマートフォンを渡される。日本語で二言、三言話そうとしたが、音楽のせいで相手の言うことがまったく聞こえない。

男性によると、このあとみんなで会食するらしい。私も誘われたが、これからホテルに戻って12時にチェックアウトしなければならない。残念ながら断った。ミャンマーに触れるもうひとつのチャンスを失ってしまった。

ホテルに戻り、12時ぎりぎりにチェックアウトする。空港行きのタクシーを依頼しておく。時間は2時半にした。例によって早すぎるが、遅すぎるよりいいだろう。

再び外出する前に、階上の共有スペースに行き、タブレットPCをネットにつなぐ(私の部屋ではWifiが弱すぎてつながらなかった)。

共有スペースに年配の日本人男性がいたので、少し話す。東京(神奈川だったかな)から来たSさんで、若いころからちょくちょく海外を旅しているらしい。フィリピン人結婚していたこともあるとか。昼食をとりに外に出ようとすると、Sさんが「私も付いていっていいですか」と言うので、一緒に行くことにした。

手持ちのチャットが余っていることもあり、ちょっと贅沢をして日本食をと考えていたのだが、Sさんと一緒となるとそうもいかない。

結局、昨日昼食をとった食堂に再び入ることにした。英語のメニューに「エビのてんぷら」とあるので注文したが、「できない」との返事。代わりにShan fried riceと紅茶にした。シャン州を訪れたにもかかわらず、Shan fried riceなるものを食べていなかったからだ。これは失敗だった。辛すぎるのだ。注文した料理を残すということがめったにない私だが、このときは3分の1くらい残してしまった。

ホテルへの帰り道、Sさんへの案内かたがた、Ruby Martへ立ち寄り、土産としてミャンマーのお茶を購入した。

タクシーは予定どおり2時半に迎えに来た(10000チャット)。1時間ほどで空港に到着。やはり早すぎた。カフェに入ってコーヒーフラッペを注文する。

余っているチャットがたくさんあるので、すべて米国ドルに再両替する。77ドル返ってきた。8泊9日の今回の旅行。現地で使ったのが715ドル。関空からヤンゴンまでの往復航空券が約6万7千円。合計でおよそ14万5千円。国内航空の代金とガイド代で現地支出の半分以上を占める。

ハノイ航空機は定刻どおりヤンゴンを飛び立ち(隣席はマンダレーから来た若いミャンマー人カップルだった)、ハノイ経由(乗り継ぎ時間は4時間近く)で無事関空に戻ってきた。

3年ぶりの2度目のミャンマー旅行。3年前の旅行と同様に十分に満足できるものだった。Beauty Land 2とBeauty Land(Bo Cho)を混同して予約してしまったこと、何回か食事の選択を誤ったこと、チャイントォンでの最後の1日を無為に過ごしてしまったことなど、小さな失敗はいろいろあったが、全体としては大過なく旅を終え、いろいろな場面でミャンマーの人たちの温かさに触れることができた。私の中にはミャンマーの人たちに対する一種の愛着のようなようなものが育っている。機会があれば、ぜひまた訪れたい。第1候補はチン州だが、パゴー、バガン、インレー湖などミャンマーの定番の観光地も見てみたい。

2019年3月6日水曜日

ミャンマー・シャン州 八日目(ヤンゴンへ戻る)

2月12日。

夜も明けきらない6時にチェックアウトする。昨夜タクシーを6時にと頼んでおいたが、チェックアウトと同時に電話しているようだった。心配することはない。ホテルから空港までは20分たらず。ヤンゴンと違って渋滞はありえない。しかも国内便だからフライトの1時間前に到着しても間に合うはずだ。

やって来たのはバイクタクシーだった。その分値段も安く2000チャット(160円ほど)。

案の定、私が出発ロビーに入ったときには他の搭乗者はまだ誰もいなかった。ミャンマーエアー便は予定より少し遅れて飛び立った。ホッとした。一番恐れていたのはこの日の便がキャンセルになることだった。ミャンマーの国内便があてにならないことは3年前に経験している。しかも明日は帰国日だ。

ヤンゴンには10時ごろに着いた。今日の宿はBeauty Land 2を予約していた。ヤンゴンの中心部にあるホテルで、3年前にも宿泊した。1泊20ドル。

空港からホテルまではタクシーで10000チャット(800円ほど)。途中、初老の運転手が私に小冊子を渡す。軍人の古い写真が表紙になっている小冊子だ。アウンサン将軍かと尋ねると、その通りとの返事。今日はUnion Day(連邦記念日)で明日はアウンサン将軍の誕生日だ。将軍の人気は今でもかなり高いようだ。

Beauty Land 2ホテルには11時ごろに着いたが、チェックインは2時からとのこと。今日はヤンゴン川の向こうにあるダラ地区に行くことにしていたので、バックパックを預けて外へ出た。

今日は朝から機内食の菓子パンしか食べていない。ちょっと早いが、ダラ地区に行くに先立って、ホテルの近くで昼食をとることにした。名前と値段は忘れたが、焼きうどんのような感じの麺を注文した。おいしかったが、量は少なかった。

ダラ地区に行くにはフェリーでヤンゴン川を渡る。フェリーが出ているパンソンダン埠頭までは歩いて行った。

フェリーは日本の援助によって就航しているもので、日本のパスポートを見せれば無料で乗船できる(日本人以外の外国人は片道2000チャット)。待合室に入ると、フェリーの関係者らしき男が「日本人はガイドが必要だ」と言い、「ガイド」と称する男を紹介してきたが、無視した。この手のトラブルについてはネットで情報を得ていたからだ。男もしつこくは追ってこなかった。

フェリーは10分ほどで対岸のダラ地区に着いた。フェリーの乗客はほとんどがミャンマー人だが、私のような外国人観光客もちらほらいるようだ。40代とおぼしき東洋人の女性と目が合ったので、英語で「日本人か」と尋ねたところ、中国人との返事。彼女の誘いに乗って一緒にダラを探索することにした。

ダラに到着

ダラはスマトラ島沖地震による津波の被災者が住み着いた地区で、「スラム」と呼ばれることもあるが、ちょっと当たっていないように思う。貧しいことは確かだが、スラムという言葉から連想する混沌はない。ちゃんと働いている人が多い。アウンサンスーチー率いる国民民主連盟(National League for Democracy)の看板も見られる。

サイカー(横に座席を付けた自転車)の誘いを断りながら、中国人女性と2人で歩いて行く。中国人女性がiphoneのマップを見ながら道案内役になってくれる。

ダラを歩いていてひときわ印象に残ったのは住民の人のよさだ。底抜けの人のよさと言ってもいい。カメラを構えた異邦人の2人を笑顔で迎えてくれる。にわか作りの質素な家が多いから、外からでも家の中が丸見えだ。そんなところを赤の他人がずかずかと通り抜け、写真や動画を遠慮なく撮る。我ながら失礼きわまりない。それでも住民は怒らない。怒らないどころか、笑顔や挨拶で迎えてくれる。

ダラ地区(その1)

ダラ地区(その2)

ダラ地区(その3)

ダラ地区(その4)

ダラ地区を歩く

僧院があったので入ってみる。青年(僧の服装ではなかった)が英語で中を案内してくれる。ここではタウンジーから来た子供たちが仏教の勉強をしているとのことだった。タウンジーといえば、私が訪れたばかりのシャン州の州都だ。がらんとした本堂で寝転んで勉強している子供いれば、テレビで中国ドラマを見ている子供たちもいる。

勉強する少年僧

汗が出るほどではないが、日中だからそれなりに暑い。食堂に入り、お茶を飲むことにした。2人とも紅茶を注文したが、予想どおり甘かった。練乳が入っているのだ。普段紅茶には砂糖を入れない私だが、たまにはこうした甘い紅茶も悪くない。

中国人女性(名前すら聞いていない)は現在は上海に住んでいるが、遼寧省の鞍山など中国のいろいろなところで働いたことがあるらしい。日本語ができる娘さんと一緒に日本を旅行したこともあるとか。娘さんはアニメや漫画を通じて日本語を覚えたという。

ダラを一緒に探索した中国人女性

私がこれまで接した中国人の多くと同様、彼女も中国共産党と中国政府に対してきわめて批判的だった。中国ではFacebookやTwitter、Youtubeなどへのアクセスがブロックされていることを指摘すると、「党や政府の幹部は自分たちの子供を米国や欧州に留学させている。これらの子供たちはネットの情報に自由にアクセスできる。なのに、国内の若者にはその自由を許さない」と言う。まことにそのとおりだ。「今の中国の若者は政府や党の言うこと、あるいは自分たちが受けてきた教育をそのまま信じている」とこぼす。私がこれまでの旅で出会った中国人の多くは「政府や党の言うことをそのまま信じている」ようには見えなかったが、これは英語をしゃべる中国人とのみ話をしているからなのかもしれない。

彼女の今回の旅はタイから始まり、ミャンマーを経てタイへ戻り、タイからラオスへ脱けて中国雲南省の昆明に向かう長丁場だ。昆明まではすべて陸路だが、昆明から上海までの最後の行程だけは飛行機を使うとのこと。

ミャンマーではドミトリーに宿泊している。それほど若くもない中国人の女性がひとりでドミトリーを利用しているのはちょっとした驚きだった。そのたたずまいや服装からして、てっきり私よりいいホテルに泊まっているものと思っていた。

7、8年前には中国人旅行者といえばほとんどがグループ旅行で、単独で海外を旅している中国人に出会うのはまれだった。今では中国人の海外旅行も多様化し、欧米型あるいは日本型に近くなっているのかもしれない。もっとも中国人にとって個人旅行はそう簡単ではない。日本人ならミャンマー、タイ、ラオスは航空券さえ入手すればすぐに行ける。中国人の場合、これらすべての国でビザが必要なはずだ。ウルムチのゲストハウスで出会った中国の青年はまだ未使用のパスポートを私に見せ、「uselessだ」と言っていた。パスポートだけではどこへも行けないということなのだろう。カシュガルで知り合った中国人女性は「香港へ行くのでさえ手続きが必要だ」とこぼしていた。

彼女とは帰りのフェリーの中で別れた。3時間あまりダラ地区を一緒に歩いてくれたことに感謝。

パンソンダン埠頭からBeauty Land 2ホテルまで歩いて戻る。途中、Ruby Martに立ち寄って、切り売りの「ういろう」のようなお菓子を2切れ買う。チェックインを済ませたときには5時近くになっていた。現地通貨をたくさん抱えているにもかかわらず米国ドルで宿代(20)ドルを支払ってしまったのは失敗。

部屋で休んでから、夕食のためにホテルを出る。3年前に韓国帰りのミャンマー人と遭遇した小さな食堂に入る。焼きそばと缶のミャンマー・ビールを注文する。3年前に注文したものとまったくと同じだ。3年前にはミャンマー人が代金を支払ってくれたため、いくらだったかわからない。今回は3000チャット(240円ほど)。おそらく3年前と同じ値段だろうが、インフレのおかげで日本円に換算すれば安くなっている。

焼きそばと缶ビールで夕食

明日は帰国日だが、フライトは18時55分だから、あわてて早起きする必要はない。

2019年3月3日日曜日

ミャンマー・シャン州 六日、七日目(チャイントォン)

2月10日。

7時半ごろ朝食をとる。一昨日、昨日と閑散としていた朝食会場だが、今日は20人近くの宿泊客で混んでいた。ふと隣のテーブルから日本語が聞こえる。

退職後にタイのチェンマイに移住した男性とその妻、そしてその友人(あるいは親戚)らしきもう1人の男性。さらに彼らをガイドしているミャンマー人の女性が日本語で話している。

夫妻は広島出身で、ミャンマー人女性は彼らの友人とのこと。ミャンマー人(ビルマ人ということだった)が広島に留学していたときに知り合ったらしい。仕事の関係でシャン州に住んでいる彼女の案内でタイからチャイントォンまでやって来たという。シャン州で日本人に遭遇するとは思っていなかった。向こうも同様で、ちょっと驚いていたようだ。

朝、ホテルを出たところで見かけた少年僧

朝食後にまず向かったのが中央市場。この市場にはすでに2回来ていたが、いずれもガイドのJosephに案内されて食料を調達しただけで、ちゃんと足を踏み入れるのははじめてだ。

3日前にチャイントォンに着いたときの印象は「眠ったような小さな町」だったが、中央市場を見てこの印象は少し修正を余儀なくされた。市場は予想以上に大きく、活気があったからだ。何軒もの食堂からは白い湯気が上がり、いずれも客で賑わっている。民族衣装の女性もかいま見られる。

中央市場(その1)

中央市場(その2)

中央市場(その3) なぜか韓服を売っている

中央市場(動画)

市場の雰囲気はタイ、ラオス、カンボジアなどと似ている。これら東南アジアの市場あるいは中国の市場と同様、写真や動画を撮っていても、誰からも文句を言われない。ただ、2、3歳の着飾った女の子がいたので、母親に断ったうえ写真を撮ったときには泣かれてしまった。

この子に泣かれてしまった

たっぷり時間をかけて市場を見たあと、ノントゥン湖へ行く。中央市場からは歩いて10分もかからない。湖に沿って歩いていると、ひとりの青年が「Speak English?」と話しかけてきた。

ノントゥン湖

ミャンマー西部のチン州からシャン州に来て、Amazing Kyaing Tong Resortというホテルで働いている青年だった。チン州から遠く離れたシャン州まで来たのは、姉夫婦を頼ってのことで、今は彼らと同居中の身(姉夫婦がシャン州に来たのは夫が転勤になったからだ)。仕事は今日はナイトシフトとのこと(ホテルの給料は安く、とても家族を養えるようなレベルではないとこぼしていた)。

Amazing Kyaing Tong Resortはチャイントォンでは最高級のホテルだ。数日前にBooking.comでチャイントォンのホテルを探したところ、Amazing Resortは満室だった。それもそのはず、2、3日前にアウンサンスーチーがチャイントォンを訪問し、Amazing Resortに宿泊したとのこと。随行者や報道関係者でいっぱいになってしまったのだ。普段は満室になることはめったにないらしい。

立ち話は疲れるので、湖畔のカフェに入ってさらに話を続ける。青年はスマートフォンに保存されているチン州やチン族の写真を見せてくれる。今度はぜひチン州に来いとのお誘いだ。私にも十分その気はある。今回もシャン州に来られなかった場合の代替候補の1つとしてチン州を検討したくらいだ。チン州には飛行場がないので、マンダレー経由のかなり長い行程になるだろうが。

チン州から来た青年

話題はロヒンギャの問題に移る。青年はアウンサンスーチーを支持している(スマホには彼女の写真もたくさん保存されていた)。アウンサンスーチーはロヒンギャへの対処を巡って西側から批判されている。しかし、と青年は続ける。アウンサンスーチーには憲法上軍隊をコントロールする力が与えられていない。しかも、議会の一定数の議席はあらかじめ軍隊に割り当てられている。彼女を批判する人たちはそこのところを理解してほしいと。

青年は湖の近くの丘の上にある大木まで案内してくれた。1115年に植えられたとされる樹齢2000年超のこの高い木の周りは一種の観光スポットらしく、何組かの若者のグループやカップルに遭遇した。

Golden World Hotel近くまで送ってきてくれた青年と別れたときには1時半になっていた。10時半ごろから今まで3時間近く、辛抱強く付き合ってくれてありがとう。おかげで、ミャンマーをほんの少しは深く知ることができ、チン州への旅がさらに一歩現実味を帯びてきた。

遅めの昼食は初日と同じ食堂(息子が英語で対応してくれた食堂)でとった。2000チャット(160円ほど)の酢豚ライス。可もなく不可もなし。息子がお茶をサービスしてくれた。

午後はチャイントォンの町をひたすら歩いた。シャン族、つまりクン族は仏教徒であり、町にはパゴダ(お寺)が至るところにある。パゴダの中には自由に入れる。少年僧が勉強をしている場面も目撃した。仏教の勉強より科学や語学を勉強をしたほうが役に立つのにと思うのは部外者の勝手な感想か。

学習中の少年僧

町のかなり外れのほうまで歩いてみたが、とりわけ興味を惹かれる光景には出会わなかった。

Golden World Hotelの数軒先にCafe 21というしゃれたカフェがある。夕食はここでとった。野菜と豚肉が入ったSteamed riceとミャンマービールの大瓶。料理が2800チャッでビールが3500チャット、それに税金が付加されて6600チャット。チップ込みで7000チャットを支払った。高いだけあってSteamed riceはおいしかった。若い女性だけのスタッフも感じがよい。ビールですっかりいい気分になってホテルへ戻る。

2月11日。

これは余分の1日だ。本来は今日ヤンゴンに戻りたかったのだが、航空券がとれず、やむなく滞在を1日延ばしただけの日(モンラーに行けていたら、また話は別だっただろうが)。

結局、昨日同様、中央市場に出かけ、湖畔を歩き、チャイントォンをぶらぶら探索するだけに終わった。新しい出会いもなかった。バイクタクシーでもチャーターしてどこか遠出すればよかったと反省したのは帰国してからのこと。

夕食は失敗した。銀紙で包んだ川魚(たぶん鮒)を買ったのだが、おいしくなかった。大きいのはいいが、骨が多いうえ、味付けが辛すぎた。3000チャット(240円ほど)と結構な値段だった。

明日のヤンゴン行きのフライトは8時15分。朝6時半ごろにホテルを出れば十分間に合うはずだが、ホテルの受付がMNA(Myanmar National Airlines)に電話してくれ、6時に出発することを勧める。早すぎる気もするが、6時のタクシーを頼んでおいた。