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2022年11月13日日曜日

アルメニア・ジョージア2022 五、六日目(トビリシを歩く)

五日目(10月24日)

Guesthouse Differenceの朝食はちょっと遅めで、9時から10時と決まっている。9時過ぎに1階に降りていくと、テーブルには2人分の食事が用意されていた。私を含めて宿泊者は2人らしい。一泊3000円ほどの宿にしては量も質も満足できる朝食だった。

Guesthouse Differenceの朝食


このゲストハウスはトビリシ中心部(旧市街)から2.4Km離れており、歩けば3、40分かかる。トビリシに馴染むためにも、中心部まで歩くことにした。

11時に宿を出て、迷いに迷い(このときは確かネット接続なしで使える地図アプリのMAPS.MEを頼りにしていたにもかかわらず)、地下鉄のAvlabari駅にたどり着いた時には午後1時近くになっていた。

Avlabari駅から地下鉄でStation Square(Central Railway Station)駅まで行く。今回の旅では三井住友銀行のVISAカードとソニー銀行のVISAデビットカードを持参していたが、トビリシの地下鉄はこれらどちらのカードでも、改札機にタッチさえすれば乗車できる。チャージ分の残額が返金されない交通カードより便利だ。

中央鉄道駅近くについては13年前の記憶が少し残っている。2009年のトビリシ滞在中に宿としていたのが、中央駅の近くにある民家だったからだ。日本人のバックパッカーをターゲットした古びた民家だった。中央駅から歩いて10分もかからないその家をもう一度見たかった。たぶんここだろうという場所を見つけたが、中には入らなかった。当時5、60代の主人とその妻(重い糖尿病に苦しんでいた)、80歳を超えた主人の母親が営んでいた民泊。13年後の現在ではもう誰も泊めていないだろうし、生きているかどうかすらわからない。素泊まりにもかかわらず朝食を出してくれたり、いろいろ世話になった宿だが、ここは思い出だけにとどめておいたほうがいいだろう。

駅前には小さな出店がたくさん並んでおり、マーケットもあった。13年前にもマーケットはあったのだろうか。まったく記憶にない。

中央駅近くのマーケット


さて今日まずやるべきはSIMカードの入手だ。スマホ関連のグッズを販売している小さな店に飛び込み、1週間の期限付きでデータ通信量が無制限のSIMカードを購入した。通話機能はなし。値段は忘れたが、1000円くらいだっただろう。

この店の中年の女主人はちゃんとした英語をしゃべった。私が初級レベルのロシア語のフレーズをいくつか披露すると、「発音がいい。ジョージア人よりロシア語がうまい」と褒めてくれる。お世辞にせよ、悪い気はしない。女主人は中国語を勉強しており、学習ノートを見せてくれた。这个、 那个などの初歩的な中国語が手書きで記されていた。

再度地下鉄に乗り、Avlabari駅まで引き返す。クラ川を渡ると、石畳の道が続く旧市街だ。石畳はよく覚えているが、目に入ってくる光景は13年前の記憶と正確には一致しない。立派な橋(Peace Gridge)や川をまたいで山頂までのびるロープウェイなど、前回の訪問時にはなかった新しい要素も少なくない。

あてどもなく旧市街をぶらついたあと、まだ日の暮れないうちに、歩いて宿に帰る。帰りはあまり迷うことなく宿にたどり着いた。

もともとトビリシに3泊の計画だったから、明日が最終日となる。しかしこの2日間はただただ歩いただけで、トビリシを「垣間見た」実感すらない。そのうえ、今日購入したSIMカードは1週間無制限で使える。

そこでトビリシ滞在をあと2泊延長することにし、旧市街にあるMariam RというホテルをBooking.comを通じて予約した。朝食付きで1泊7500円ほどの宿だ。Guesthouse Differenceの2倍以上の宿だが、値段よりも快適さを選んだ。

六日目(10月25日)

朝食の席でロシア人の2人連れと一緒になった。50歳代くらいの男性と20代とおぼしき男性。父子とみたが、顔があまり似ていないし、ほんとうのところはわからない。話し相手となったのは父(?)のほうだけ。若い方は英語ができないのか、口を挟むことはまったくなかった。

彼らはモスクワ近郊からトビリシまで車でやってきた。戦争を逃れるためだ。互いのプーチン批判を交換し、「Putin is crazy」という結論で一致した。2人はこれからどの国に向かうのかまだ決めていないとのことだった。

この日も歩いて旧市街を目指した。宿から2、3軒を過ぎたころ、木戸口からバケツを下げた老婆が出てきて、私にロシア語で話しかけた。何を言っているのかよくわからない。バケツを持つのを手伝ってくれと言いたいのだろうか。しかし、よく聞いてみると、「私はジョージア(グルジア)人ではない。オセチア人だ」と言っている。なぜ老婆が東洋人の私に向かってそんなことを告げたのか、その理由はわからないが、オセチア人に会うのがはじめての私は少し感動した。

旧市街に着き、まず明日から2泊するMarium Rの所在地を確かめた。ホテルらしからぬ普通の民家のような門構えで、ちょっと見つけにくかった。

ハチャプリとビールで遅めの昼食とする。ハチャプリとはジョージア特産のチーズ入りのパン。13年前にも食べたことがある。代金は26ラリ。日本円で1300円。ごく普通の小規模なレストランで、値段もメニューのとおり。ぼられたわけではない。アルメニアもジョージアも平均月収は4~5万円くらい。アルメニアのセルフ式のレストランでも1000円を超えることが多かったが、日本の6分の1くらいの収入と日本並みの外食価格がどうcompatibleなのか、謎だ。

ハチャプリ



宿まではYandexを使って帰った。4ラリ(200円ほど)。


2022年11月9日水曜日

アルメニア・ジョージア2022 四日目(トビリシへ移動)

10月23日

 

今日はジョージアの首都トビリシへ移動する日。ジョージアは2009年、13年前に訪れた国だ。13年前の旅では、トビリシを拠点に、ムツヘタ、カズベキ、ゴリを巡った。今回の旅の主目的ははじめて訪れるアルメニア。ジョージアは付録でしかない。ロシアのウクライナ侵攻とそれに続く動員令の発令以降、ロシア人の大量流入が伝えられているジョージア。その首都トビリシの様子を垣間見るだけでいい。トビリシにのみ、3泊4日の予定で宿を予約しておいた。


エレバンからトビリシ行きのバスはセントラル・バスステーション(キリキア・バスステーション)から出る。朝食を済ませ(早かったので同席者はなし)、Yandexでバスステーションに向かう。初日にYandexで一悶着あったから少し心配ではあったが、今回はスムーズだった。20分くらい乗って400ドラム。150円ほどだ。もちろん料金は乗車前にスマホに表示されており、運転手と話す必要はない。


トビリシ行きミニバスは9時、11時、1時に出発との情報を得ていたので、9時前に到着したのだが、実際にバスが出発したのは10時半だった。料金は8000ドラム(約3000円)。

30分の昼食休憩をはさみ、およそ4時間でバスは国境に着いた。アルメニア出国もジョージア入国もごく簡単で、パスポートにスタンプを押すだけ。コロナ関連のチェックはまったくない。

アルメニアからジョージアへバスで


サービスエリアで昼食(350円ほど)


さらに2時間ほど走り、午後4時半にトビリシに到着した。着いたのはいいが、途方に暮れてしまった。ある程度大きいバスステーションに着くだろうと思っていたが、予測に反して、マルシェルートカ(マイクロバス)が数台並んでいるだけの何の変哲もない場所に降ろされたのだ。

今自分がいる場所がわからない。予約してあるゲストハウスはトビリシから2~3Km離れている。SIMカードを売っているショップも見当たらない。ネットにつながらないからYandexも使えない。スマホのない時代なら、躊躇なくタクシーを拾って宿まで行くところだが、見知らぬ街(13年ぶりだから実質的にはじめて訪れる街だ)でタクシーを利用することには抵抗があった。

窮余の一策で、近くにあるホテルに飛び込んで助けを求めた。ホテルなら英語が通じるだろう。

おおげさだが、「地獄で出会った仏様」とはこのホテルの女主人だ。自分のホテルの客でもない一旅人に救いの手をさしのべてくれた。私が予約してあるゲストハウスまで電話してくれ、格安のタクシーを呼んでくれる。タクシーが到着すると手をとって車まで連れて行ってくれる。タクシーを待つ間にコーヒーまで出してくれた。

幸い、エレバンで160ドルをジョージア通貨のラリに両替していたので、手持ちの現金は十分だった。タクシーがゲストハウスに着くと、スタッフが門の外で待っていてくれた。

今日から3泊するのはGuesthouse Difference。朝食付きで3泊10000円と格安だが、トビリシの中心部からは離れており、バス・トイレは共用だ。

近くの店までも歩いて10分ほどかかる。暮れかけた道を10分歩き、夕食代わりのコーラとお菓子を購入し、ようやく一息ついた。


2022年11月7日月曜日

アルメニア・ジョージア2022 エレバン二日、三日目

 二日目(10月21日)

Villa Delendaの朝食は8時から。8時過ぎに朝食会場の地下へ降りる。びっくりする。なんともレトロ。クラッシックと形容してもいい。ホテルというより、アルメニアの旧家の地下室に降り立った感じ。壁には大きな肖像ががいくつかかかっており、本棚やピアノまである。

Villa Delendaの朝食会場


8部屋しかない小さなホテルだが、食卓には6人分の皿が並べられている。残念ながら、この日は同宿者と顔を合わせることはなかった。


朝食後、宿の近くの散髪屋で髪を切る。旅行のたびに現地の散髪屋を利用するのは、このところ私の習性となっている。料金は3000ドラム、約1200円だ。円安の影響もあり、日本の1000円カットとほぼ同じ値段。海外でのヘアカットとしてはこれまでの最高値だ。ちなみに、これ以前の最高値は台湾の600円、最安値はエジプトはカイロの180円。


曇り空のもと、エレバン随一の観光スポットである「カスケード」に徒歩で向かう。カスケードとは、アルメニアのソ連併合50周年を記念して1970年に建てられただ規模な滝(カスケード)状の構造物だ。

カスケード


中年のカップルに写真を頼まれる。イランから来た観光客とのこと。カスケードを登ればはエレバンの街を眺望できる。


昼も遅くなり、小雨が降り出した。エレバンの中心である共和国広場まで戻り、歴史博物館を見学する。ネアンデルタール人の頭蓋骨などが展示されている一方、現代の歴史についてはほとんど触れられておらず、ちょっと失望した。


夕食は昨日と同じセルフ式のレストランでとった。寿司もあったので、マグロ、サーモン、アボカドのロールを食べてみた。味は期待していなかったが、予想通りのまずさだった。寿司以外の他の料理はおいしかった。

二日目もセルフサービスのレストランで(寿司3個付き)


三日目(10月22日)

今日の朝食会場には先客がいた。30歳代のロシア人女性。モスクワからやってきた観光客で、アメリカ人の女性歌手のコンサートのためにエレバンを訪れたが、肝心のコンサートがキャンセルされてしまったという。モスクワの印象などについて話しているところへ、英語の達者な別の若いロシア人女性が登場。サンクトペテルブルク出身で、こちらも観光客。中国でモデルとして働いていたらしい。モスクワの女性もサンクトペテルブルクの女性もスターリンがジョージアのゴリ出身だということを知らなかった。


このあと、スウェーデンの女性やモスクワ出身で現在はドイツのブレーメンに住んでいる男性なども加わり、活気のある朝食の場となった。


午前中は共和国広場から歩いて30分ほどのGUMマーケットを訪れた。GUMマーケットへ向かう途中、中国系の「メイソウ」やフランス系の「カルフール」などの店があったので覗いてみた。


GUMマーケットはそれなりに大きい屋内マーケットだった。予想していたローカルマーケットとはちょっと雰囲気が異なる。かといって、観光客向けのマーケットという感じもしない(そもそもエレバンにはそれほど多くの観光客がいない)。ちょっと不思議なマーケットだ。

GUMマーケット

共和国広場へ戻る途中、大きな教会が目に付いたの入ってみる。後で調べると、Saint Gregory The Illuminator Cathedralという大聖堂だった。通称エレバン大聖堂とも呼ばれており、比較的最近に建造されたものらしい。

今日の午後3時からはYerevan Free Walking Tourというウォーキングツアーに参加した。
昨日オンラインで予約しておいたツアーだ。フリーといっても、10~30ドル程度の献金が期待されている。この日も午後から小雨が降っていたが、3時頃にはあがっていた。

共和国広場に集合したツアー参加者は12、3名。イスラエル、ベルギー、ロシア、レバノン、ドイツなど出身地はさまざまで、年齢も一様ではない。ここに参加したロシア人女性も「コンサートがキャンセルされ、やることがなくなった」と言っていた。香港から来たひとり旅の女性もいた。香港女性は日本をたびたび訪れており、もっぱら大阪に滞在しているとのこと。

ガイドはアルメニア人男性。どこを巡るかをWebサイトでちゃんと調べておかなかったこともあり、ツアーの記憶はあいまいだ。「GUMは観光向けで、エレバン市民のマーケットではない。エレバンのローカル・マーケットは中央鉄道駅のそばにある。」という情報だけが頭に残った。おっともうひとつ。「アルメニア人の平均月収は500ドル」という情報も貴重だった。

ウォーキング・ツアー

3時間のツアーが終了したのは6時過ぎ。あたりはすっかり暗くなっている。ツアー中にアルメニア産のパンを試食したこともあり、腹は空いていない。そのままホテルに帰った。

明日はジョージアのトビリシに向かう。

2022年11月5日土曜日

アルメニア・ジョージア2022 アルメニア到着(10月20日)

 2929年2月にフィリピンから帰国してから2年8ヶ月、10月半ばに日本への入国制限が大幅に緩和され、PCR検査の陰性証明は不要に、3回のワクチン接種証明を提出するだけで入国・再入国が可能になった。


パンデミックのせいで制限されてきた海外への渡航がようやく現実味を帯びてきた。日本や米国を除き、海外の大多数の国ではすでにパンデミック関連の規制はほぼ全廃されており、陰性証明はもちろん、ワクチン接種証明も必要ない。


さて久しぶりの海外旅行、行き先をどこにするか。パンデミック発生以前に計画していたのは北コーカサスへの旅行だった。北オセチア、イングーシ、チェチェン、ダゲスタンをマルシェルートカ(マイクロバス)で巡る旅だ。前回のチェチェン旅行とは異なり、今回はガイドを付けずに単独で。


が、2022年2月にロシアがウクライナへ侵攻し、この計画は水泡に帰した。戦争状態(プーチン流に言えば特別作戦)とはいえ、ロシアのビザ取得は不可能ではない。ロシア国内の旅行も従来とそう変わりはないだろう。しかし、ロシアへ飛ぶ飛行機は大幅に減っており、航空運賃も高騰している。そのうえ、この状況下、ロシア国内でへたに動き回ればスパイ扱いされる可能性もゼロではないだろう。


北コーカサスがだめなら、南コーカサスだ。南コーカサス3国(アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニア)のうち、ジョージアは2009年に訪れた。残るはアゼルバイジャンとアルメニア。この2カ国を同時に訪れればいいのだが、アゼルバイジャンとアルメニアは準戦時状態で両国間の国境は完全に封鎖されている。


そこでアルメニアに的を絞った。10月19日から31日までの日程。これだけの期間、アルメニアだけでは物足りない。アルメニアはトルコと隣接しているが、歴史的にトルコとの関係もよくなく、トルコへの道はたたれている。残るのはジョージア。ジョージア(当時はグルジア)は13年前に訪れたとはいえ、ロシアからの脱出組が殺到しているという現在の状況にはおおいに興味がある。アルメニア滞在中、3、4日はジョージアの首都トビリシに遠出することにした。


10月19日23時30分、ドバイ行きのエミレーツ便で関空を飛び立った。10時間の飛行と3時間余の待ち時間を経て、翌20日の昼の12時ごろ、アルメニアの首都エレバンに降り立つ。


まずは両替とSIMカードの購入。円安のまっただ中だが、今回の旅行は1ドル90円のころに買い込んだ米ドルとユーロのキャッシュで十分にまかなえる。空港内には両替所もSIMカードのスタンドもいたるところにあった。SIMカードは5GBを1000円ちょっとで購入。


宿はBooking.comでエレバン中心部のVilla Delendaを3泊予約していた。3泊で72900ドラム(アルメニアの通貨単位)。円安の現在のレートで換算すると27000円余り。朝食付きだが、私にとっては贅沢な宿だ。


空港からホテルまで、配車アプリのYandexを使って行くことにした。アルメニアやジョージアではUberは使われていない。代わりによく利用されているのはYandexだ。SIMカードと電話番号を使えるようになった段階で、あらかじめインストール済みのYandexをセットアップし、車を呼び出す。


空港の外にはYandex用の乗り場があるので便利だ。5分ほど待って車がやってくる。ここで失敗した。運転手に「いくらか?」と聞いてしまったのだ。どの配車アプリでもあらかじめ値段は決まっている。「いくらか」と尋ねるのはバカの骨頂だが、これは運転手のアイコンをクリックしたときに値段が表示されていなかったためだ。Uberでも東南アジアで使われているGrabでも、運転手を選んだときに値段が表示される。値段は運転手によって多少の相違がある。ところがYandexの場合は、運転手を選ぶ前に行き先までの一律の値段が表示される。つまりどの運転手を選んでも同じ値段になる。はじめて利用する私は最初に表示された一律の値段を見落としていた。


運転手の答えは「Two」とのことだった。どの単位のtwoなのかはわからない。


ホテルまでの約30分の道中、英語がわからない運転手と私の初歩レベルのロシア語でそれなりに楽しく会話。ところがホテルに到着した運転手は2万ドラム(8千円近く)を要求してくる。これはさすがに高い。私は「高すぎる。ホテルに入ってスタッフに尋ねてみるので、一緒にホテルに入ってくれ」と反論した。運転手はロシア語で「ここに駐車しておくことはできない。ともかくお金を払え」と言い張る。


かまわず私はホテルに入り、受付の若くてかわいい女性に英語で事情を話す。女性も「2万ドラムは高すぎる」と言う。女性を伴って外へ出ると、車は消えていた。おそらくYandexに顛末を報告されることをおそれた運転手が逃亡してしまったのだ。結果的に私は空港から宿まで無料でたどり着いたことになる。後日、宿から空港までYandexで行った場合の値段は1700ドラムだった。空港から宿まで、おそらく2000ドラムくらいだったのだろう。事情を知らない私に20000ドラムという法外な値段を要求した運転手は2000ドラムも受け取らずに消えてしまった。


Villa Delendaはホテルというより古い民家というおもむきだった。単独で探していたら見つけにくかったかもしれない。部屋の中も同様で、なんと結構な数の本で埋まった本棚まであった。

Villa Delenda


部屋の中の本棚



遅めの昼食は宿から歩いて10分たらずのセルフサービス式のレストランでとった。ジャガイモと肉の皿とサラダ、水とパンで1000円余り。円安とはいえ、平均月収500ドルのアルメニアにしては結構な値段だ。アルメニア最初の食事はまずまずのおいしさだった。


このレストランで



アルメニアで最初の食事




食事後、エレバンの街をすこし彷徨したが、方向音痴の私としてはGoogleマップを頼りにしてもかいもく見当がつかない。


夕食はスーパーで購入した菓子パンとジュースで済ます。


2021年7月2日金曜日

Emile Zola: L'Assommoir(居酒屋)

著者:Emile Zola

刊行:1876年

評価:★★★★★

Kindle版(無料)

2021年6月27日読了

タイトルのL'Assommoirは仏和辞書によると「【古・俗】(安酒を飲ませる)酒場.居酒屋」という意味だが、この小説では主人公夫婦行きつけのパリの安レストラン兼酒場の屋号を指す。つまり固有名詞だ。日本では「居酒屋」という表題が定着している本書だが、今時の感覚からするとちょっとそぐわない。言葉が内包する意味は時代とともに変わる。izakayaとして外国に紹介され、少なからぬチェーン店も存在する平成や令和の「居酒屋」は本書の内容や雰囲気とはかけ離れている。昔風の「酒場」としたほうがしっくりと来る。

苦労しながら読んだ。ストーリーが複雑なわけでもなく、内容が難解なわけでもない。未知の単語が多すぎるのだ。その多くが古い表現や俗語で、辞書を引いても載っていない。写実主義のゾラらしく、洗濯屋、ブリキ工、鍛冶屋などの労働現場、結婚式をはじめとする祝いの場での飲み食いとどんちゃん騒ぎ、安アパートの内部が事細かく描写されるが、その半分も理解できず、ただ単語を目で追うだけというありさまだった。本書より10年以上前に刊行されたレ・ミゼラブルのほうがはるかに読みやすかった。したがって「読了」と言うにははばかられるが、あえて仏語で読むことで、邦訳や英訳にはない生々しい雰囲気を感じられた(と強弁しておこう)。

主人公はジェルヴェーズ (Gervaise) という女性。息子2人を連れて愛人(ランティエ)と一緒にプロバンスからパリにやって来たが、ランティエは彼女を捨てて別の女のもとに走る。幸い、ブリキ工として働く実直な男(クーポー)に求婚され、新しい世帯を設けて、娘(ナナ)も生まれる。

しかし幸せは長くは続かない。クーポーが仕事中に屋根から転落して働けなくなったのだ。怠け癖がついたクーポーは傷が癒えたあとも仕事には行ったり行かなかったり。酒浸りになり、妻や娘に暴力を振るうようにもなる。おまけにクーポーはこともあろうにジェルヴェーズの元愛人のランティエを自分たちの住居に連れ込み、ともに住むことを許してしまうしまつだ。

そんな中でもジェルヴェーズは洗濯屋を開き、何人かを雇って懸命に働く。このころが彼女の絶頂期だったかもしれない。だが夫の怠け癖と酒癖は直らず、洗濯業も傾きはじめる。仕事をおろそかにするようになったジェルヴェーズは、夫を探しにでかけた飲み屋で勧められるままに酒を飲み、その味を覚えてしまう。

あとは転落の一途だ。夫のクーポーは精神病院に入院させられ、そこで狂い死にする(この狂い方の描写もすさまじい)。その後を追うように、ジェルヴェーズもひっそりと息を引き取る。

救いのないストーリーだ。こうした悲劇はジェルヴェーズだけのものではない。その隣人や知人の多くも同じような問題を抱え、同じような悲劇に巻き込まれていく。酒と暴力と貧困。これらが互いに因となり果となり、悪循環を繰り返す。この風景が19世紀中葉のバリをどこまで忠実に写しているのかはわからない。しかし150年後の現代、フランスのみならず世界各地で同様の悲劇が形を変えて繰り返されていることを思えば、絵空事ではないことだけは確かだ。

いくつか忘れられない場面がある。ジェルヴェーズと同じアパートに住む幼い少女ラリー(Lalie)は妹と弟の面倒を見ながら、酒乱で乱暴な父親と一緒に暮らしている。ジェルヴェーズはなにかとラリーを気にかけ、少女に暴力をふるう父親に体を張って抗議する。しかし、ラリーは父親をかばい、擁護する。そのけなげさが痛ましい(最後には父親の暴力がもとで死ぬことになる)。ある晩、酒に酔って帰ってきたジェルヴェーズは廊下でラリーに出会う。泥酔状態のジェルヴェーズを無言のまま見つめるラリーの目。失望なのか、憐憫なのか、軽蔑なのか、複雑な眼差しだ。

もうひとつ。ジェルヴェーズの娘のナナは幼いときから我が強く、近所のガキ大将といったところだった。やがて思春期に達したナナは近所の同年代の少女たちを引き連れてパリを練り歩く。この様子が「失われた時を求めて」の第2篇「花咲く乙女たちのかげに」でジルベルトたちの一団が登場する場面を想起させた。一方は「不良少女たち」と言ってもいい労働者階級の娘たちであり、他方は豊かな中産階級の娘たちだという違いはあるが、どちらも颯爽としており、華やかで、絵になる。ナナはゾラの後の作品「ナナ」では高級娼婦として登場する。

実はL'Assommoirの前に、同じくゾラのGerminal(ジェルミナール)を読むつもりだった。だが4、50ページほど読んだところで挫折してしまった。鉱山での労働の様子がまったく頭に入らなかったからだ。L'Assommoirがこれほどおもしろいなら、Germinalもおもしろいに違いない。傍らに英訳を用意してでも、もう一度挑戦したい。

2021年6月22日火曜日

Elias Canetti: Die Fackel im Ohr


著者:Elias Canetti

刊行:1980年

評価:★★★★☆

2021年6月9日読了

1981年にノーベル文学賞を受賞したElias Canetti(エリアス・カネッティ)による自伝3部作中の第2部。タイトルのDie Fackel im Ohrは英訳ではThe Torch in My Ear、邦訳では「耳の中の炬火」となっている。

第1部のDie Gerette Zunge(救われた舌)を読んだのはいつだっただろうか。20年くらい前になるかもしれない。おもしろかったいう印象は残っているが、内容はほとんど忘れている。第2部の本書は当然第1部に続くものであり、第1部が前提となる。したがって、Die Gerette Zungeを読んでいないと(あるいは私のように忘れてしまっていると)不可解な部分も若干出てくる。といっても、本書のコアの部分は第1部の知識がなくても十分に理解でき、楽しめるだろう。

Elias Canettiはスペイン系ユダヤ人としてブルガリアのルセに生まれた。母語はラディーノ語(古いスペイン語)だが、幼いころイギリスに移住し、フランスやオーストリア、スイスにも滞在経験があることから、英語とフランス語、ドイツ語にも通じていた。小説をはじめとする作品はすべてドイツ語で書かれている。ユダヤ人ではあるが、その意識はあまり強くない。あえてアイデンティティを求めるなら、「ヨーロッパ人」というのが一番ぴったりとするだろう。この点、同じくユダヤ人ではあるが、ヨーロッパを強く意識していたシュテファン・ツヴァイクと共通する。

本書がカバーするのは1921年から1931年までで、著者の16歳から26歳にかけての10年間だ。場所はフランクフルトとウィーン、それに旅行で訪れたベルリン。なかでも大学時代を過ごしたウィーンが中心となる。大学では化学を専攻するが、これは「実学」を望む母親に妥協した選択であり、著者の関心は「社会」(とりわけMasse=大衆、民衆)と「文学」にある。

母親との確執は本書の柱のひとつだ。父親は早くして亡くなっており、病弱な母と息子3人(著者と2人の弟)で第一次大戦後のフランクフルトとウィーンを生きる。母子家庭ではあるが、父親の遺産もあり、生活にゆとりがないわけではない(ここらへんのことはDie Gerette Zungeに記述されていたのであろうが、私の記憶からは飛んでいる)。母親は相当の教養人で、エリアスに大きな影響を与えていた。エリアスにドイツ語を徹底的に叩き込んだのも母親だ。しかし、第一次大戦後のインフレの中、ドイツやオーストリアでの生活はそう容易ではない。母はお金を気にするようになり、子供たちも節約を求められる。精神生活よりその日の暮らしが重要になってくるのだ。

著者はこれに強く反発する。ときには母親に怒りをぶつけ、ときには母親を欺しながら、母親からの独立を実現していくのがこの時代の著者だ。時代環境、家庭環境を考えれば、お金にせちがらくなった母親を責めるのは酷なことだ。もっとも母親を客観視し、距離とシンパシーをもって見ることができないのも若さの証かもしれない。

両次大戦間のウィーンは私にとってもっとも興味のある時代のひとつだ。1910年から1930年頃までのウィーンは私にとってはマーラーの音楽であり、ウィトゲンシュタインやウィーン学団(カルナップなど)の哲学であり、私の20代の精神世界そのものだった。

著者は哲学にも興味を示しているが、ウィーン学団は素通りされている。代わって著者を支配したのはカール・クラウスだ。本書のタイトル「Die Fackel im Ohr」もクラウスが創刊した雑誌「Die Fackel」(炬火)からきている。カール・クラウスの影響力がどれほど大きかったかは、この時代について書かれた多くの本に証言されている。文筆でもさることながら、特にウィーン人を魅了したのは彼の講演だったらしい。

カール・クラウスは今日ではあまり読まれていない。私もまったく読んだことがなく、彼についての評価は控えるしかない。

本書は処女作「Die Blendung」(眩暈)の構想が徐々に固まり、カネッティが小説家としてスタートする前夜で終わっている。Die BlendungはDie Gerette Zungeよりももっと前に読んだが、内容はほとんど覚えていない。

本書はそうすらすらと読める本ではない。ところどころでひっかかり、二度、三度を読み返すことが必要になる(読み返してもわからないケースも少なくない)。もちろん私のドイツ語能力の問題だが、それだけではなく、内容自体がむずかしいこともある。それでも、若き著者が出会う有名無名のさまざまな人々、第一次大戦後のドイツとオーストラリアの混乱などが生き生きと描かれてる本書は、多少の難しさに直面しても、最後まで興味深く読み進めることができた。

2020年11月24日火曜日

Édouard Louis: Qui a tué mon père

2020年11月23日読了

著者:Édouard Louis

刊行:2018年

評価:★★★★★

1992年生まれの若手フランス人作家Édouard LouisによるQui a tué mon père(誰が私の父を殺したか)は、En finir avec Eddy Bellegueule(エディに別れを告げて)とHistoire de la violence(暴力譚)に続く彼の3つ目の作品だ。第1作も第2作もそれほど長くはないが、この3作目は80ページ余と、ことのほか短く、Romanと呼ぶのに躊躇するほどである。なにぶんにもフランス語だから、私が読了するには数日かかったが、ネイティブのフランス人なら2、3時間で読み終わるだろう。

内容は処女作のEn finir avec Eddy Bellegueuleにつながる。続編というわけではない。処女作を補完する補遺といったところか。叙述のほとんどはTu(「あなた」の親称)を使って父親に語りかける形式になっている。

作者が生まれ育ったのは北フランス工業地帯の小さな町(作品ではvillage、つまり村となっている)である。住民の多くは地元の工場で働いている。作者の父親はリセ(高校)を終えてからの5年間を南フランスで過ごす。「現実を忘れる権利」を享受する期間を「青春(jeunesse)」と呼ぶなら、南フランスでの5年間はまさにその青春を引き延ばすためのあがきでもあった。

父親は結局生まれ故郷の村に戻り、地元の工場に勤める。しかし工場で事故に遭い、背中を傷める。その後遺症も癒えない中、不景気の煽りを喰い、工場を辞める。ままならない身体のまま、やっとありついたのは道路掃除の仕事だ。毎日腰をかがめて、長時間、道路を掃いている。

久しぶりに帰郷した作者が見た父親に昔の面影はない。歩くのもやっとの疲れ切った姿。50歳になったばかりだというのに。

父親やその周辺を支配しているのはmasculinité(男らしさ)という価値観だ。男にはなによりもマッチョであることが求められる。ゲイである作者がこうした環境に別れを告げ、高等教育を受けるまでのプロセスが処女作En finir avec Eddy Bellegueuleの主題だった。

本書は父親にまつわるランダムな思い出やエピソードからなる。たとえば2004年の次のようなエピソードを紹介しておこう。

中学校で冷戦とベルリンの壁について学んだ作者。ベルリンが壁で分断されていたという事実に衝撃を受け、好奇心をおおいにかきたてられる。ヨーロッパが2つに分かれてたなんて。道の真ん中に壁が建てられ、行き来が不可能になるとは。

作者は急いで家に帰る。父親なら壁が崩壊したときには成人になっており、もっと詳しい情報が得られるはずだ。「壁を実際に見た人を知っているか、実際に壁に触った人に会ったことはあるか」などの数多くの質問を抱えて家に急ぐ。

父親の回答は漠然としていた。「そんなことがあったね。テレビで報道されているのを見た」。しつこく質問すると、父親は怒り出して怒鳴る。怒鳴るのはいつものことだが、このときの怒鳴り方はいつもとは違っていた。怒鳴り声の中に「恥辱(honte)」が混じっていたのだ。無知であることの屈辱。学校で教える歴史と父親の歴史は重ならない。

「マッチョであること」の中には学校や教師に対する反抗も含まれ、勉強は軽蔑される。教師に平手打ちを喰らわせた作者の従兄弟は、そのことでみんなから賞賛される始末だ。かくて社会的な階段を上がることをみずから拒否し、貧困が再生産される。

物語も終わりに近づいたころ、「政治」が登場してくる。シラク、サルコジ、オランド、マクロンといった歴代の大統領の名前が挙げられ、彼らの行った社会保障の減額や労働時間の延長とった政策が糾弾される。「私の父を殺した」(実際に死んでいるわけではないが)のはこうした政治家とその政策であり、社会のシステムだ。「持てる者、支配する者」にとっては政治とは「美学の問題」であり、「世界観の問題」でしかない。しかし「持たざる者、支配される者」にとっては政治は生活に直接影響する「生きるか、死ぬか」の問題なのだ。

短い小説だが、無駄な行は一行もなく、濃密な内容がぎっしりと詰まっている。ここ数年に読んだ本の中では出色、まぎれもなくナンバーワンだ。英訳や独訳は出ているが、残念ながら日本語には訳されていない。

作者のÉdouard Louisが本書について語っている動画がいくつかYoutubeにアップされている。たとえば次の動画ではLouisが英語でインタビューに答えている。

Édouard Louis and Kerry Hudson: Who Killed My Father?


フランス語でのインタビューは次の動画。

« Qui a tué mon père », le nouveau livre d'Édouard Louis