よろしければクリックしてください。
にほんブログ村 旅行ブログ 海外旅行へ
にほんブログ村

2015年9月8日火曜日

北朝鮮2014 二日目(8月19日)

ホテルで朝食をとったあと、会寧市内の観光に出かける。会寧は金日成の妻にして金正日の母である金正淑(キムジョンスク)の生誕の地として有名。金日成や金正日の銅像に代わって金正淑の銅像があるのはこのためだ。まずこの銅像に詣で、続いてすぐ近くにある金正淑の生家や革命博物館を見学する。

会寧ホテルの朝食

現地のガイドは年の頃4、50歳の上品な女性。抗日パルチザンに参加して、金日成と結婚、金正日をはじめ5人の子を残して32歳の若さで世を去った金正淑を語るとなれば、日帝の支配や日本軍の残虐さへの言及は避けられない。この説明を我々のガイドである徐氏が通訳するわけだが、ことが日本に触れそうになると、私の方を向いて"I'm sorry"と断ってから訳し始める。そこでみんながドッと笑う。私も苦笑いするしかない。

金正淑の生家前で


金正淑の生家で、現地ガイドの女性は説明の最後に「今日は日本人の方もいらっしゃるというので」と、エピソードをひとつ特別に付け加える。敗戦後に朝鮮の地に取り残された日本人の家族の境遇は悲惨だった。朝鮮の家々を巡って食べ物を乞う家族もいたという。金正淑のもとにもこうした家族がやって来た。金正淑は彼らを温かく迎え、食べ物や寝どころを提供したというエピソードだ。家族が日本に帰国したあとも、その家族と金正淑の間には親密な交流があったという。どこまでが史実か確かではないが、聞いていて悪い感じはしなかった。

革命の聖地巡りに続いて、中学校を訪問した。英語やコンピューターの授業を見学。英語のクラスでは、女性教師が英語だけを使って授業を進めていた。最後に我々ツアーの各メンバーが生徒たちに話しかける機会が設けられた。私は2人の男子生徒に話しかけたが、彼らの緊張ぶりはただならなかった。簡単な質問をするたびに、椅子から立ち上がって、直立不動で答える。「立ち上がらなくていいよ。リラックス、リラックス」と言っても、態度は堅いまま。アメリカ人のErnestが"Poor Kids! They were terrified"と漏らしていたが、そのとおりだ。



校庭では男子生徒がサッカー、女子生徒がバスケットボールの練習をしていた。サッカーでは我々のツアーのメンバーも交えた試合形式の練習も行われたが、私は参加しなかった。68歳のJohnが機敏な動きを見せていたのにはびっくり。

バスケットの練習中


この我々の学校訪問はかなり演出されたものだったように思う。英語、コンピューター、サッカーなど、我々の興味を引きそうな授業が都合よく進行してからだ。

昼食後、専用のミニバスで清津(チョンジン)に移動。清津は北朝鮮第三の都市。日本との関係でもしばしば名前が出てくる港町だ。会寧から清津への移動中に目に焼き付いたのは「貧しさ」だった。崩れかかったような農家が続く。私は元山、妙香山、南浦、開城などにも行っているから、平壌以外の地方もほんの少しは知っている。しかし平壌との格差がこれほどはっきりしている光景は初めてだ。こんな事情もあってか、バスの車窓からの写真撮影は禁止され、清津市内での撮影も厳しく制限された。興味深い光景が数多くあっただけにこれは残念。

清津への移動中に見かけた子供たち(Anton撮影)


途中にある食品工場を見学してから、清津の街に入った。街の様子も平壌とははっきりと差がある。街の中心部では道路工事が行われていた。おそらく住民がかり出されてやっているのだろう。機械を使わない手作業だ。赤旗を振り、歌を歌ってこの工事を応援する50人ほどの集団。話には聞いていたが、実際に目にするのは初めてだった。

コンピューターがずらりと並んだ電子図書館(ゲームを楽しんでいるだけの子供も少なからずいた)を見学してから、清津観光旅館に投宿。この宿もバスタブがあるが、湯は出ない。

電子図書館


ホテルでの夕食後、全員で船員クラブに出向く。これは土産物屋、サウナ、レストラン、、バー、カラオケを備えた「総合娯楽施設」といったところ。少し前にアメリカ人の観光客がここのトイレに聖書を置き忘れ、何ヶ月も拘留されるいう事件があった。カラオケでは私も「アリラン」を歌うはめに。北朝鮮のこの種の施設ではどこでもそうだが、店員たちはすばらしい歌や踊りを披露してくれた。

0 件のコメント:

コメントを投稿