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2016年10月7日金曜日

Simone de Beauvoir: Tout compte fait


2016年9月23日読了
著者:Simone de Beauvoir
評価:★★★★☆
刊行:1972年

Mémoires d'une jeune fille rangéeから始まるシモーヌ・ド・ボーボワールの一連の自伝の最終巻。このあとにもサルトルの死を扱ったLa Cérémonie des adieuxが1981年に刊行されており、これも自伝の一部とみなすことができる。しかし、母親の死を扱ったUne mort très douceと並び、La Cérémonie des adieuxはいわば外伝であり、正式な自伝は Tout compte faitをもって締めくくられる。 表題どおり「すべて語り終えた」わけだ(日本語版のタイトルは『決算のとき』)。外伝も含め、これで彼女の自伝を全巻読んだ。

本書は前作のLa Force des chosesをふまえ、1963年ごろから1971年ごろまでを扱う。つまりはサルトルとボーボワールの人気が最高潮に達し、彼らの影響力が最大になった時期だ。叙述は時系列ではなく、テーマ別になっている。この間の自身の著作、読んだ本、観た演劇や映画、聴いた音楽、国内や国外の旅行、アルジェリア、ソ連、中国、チェコ、中東、ベトナム(米国の戦争犯罪を裁くラッセルの国際法廷への参加を含む)などの海外の出来事、フェミニズム、国内政治、とりわけ68年の学生運動などがそれぞれ章別に語られる。

海外旅行に関してはサルトルに同行した1966年秋の日本への旅行にも一章が割かれており、興味深い。これは日本の出版社と慶応大学に招待された講演旅行で、東京、京都、広島、長崎などを訪れている。京都にはかなり多くのページが費やされているのに対し、大阪はNous avon passé un après-midi à Osaka. Nous y avons vu un quartier populeau où beaucoup de visages nous ont semblé moroses.(私たちは大阪で午後を過ごした。人通りの多い界隈に出かけたが、そこでの人々の表情は陰鬱そうだった)とたった2行でかたづけられている。この観察は大阪にとってちょっと酷ではなかろうか。

歌舞伎にはあまり関心を示していない一方、能と文楽を高く評価している。能や文楽が創り出す「別世界」(autre monde)で表現される感情の深さとリアリティがその理由だ。「本当に死体であるような死体を劇場で見たのは初めてだ」という感想もある。

ボーボワールは旅行に先立ち、行き先となる国を徹底的に調べている。日本についても同様で、フランス語と英語で書かれた膨大な量の資料にあたっている。そうしたなかから谷崎潤一郎にも関心を持ち、京都に住んでいる谷崎未亡人と会ったりもしている。こうした徹底した勉強は優等生の彼女らしいところといえよう。ネットで2、3時間だけざっと調べてから未知の国に旅立つ私とは大きな違いだ。比較にもならない。

サルトルとボーボワールのカップルはソ連とは徐々に距離置くようになる。1968年のソ連軍のチェコ侵入はその乖離を決定的にする。他方、中国への関心は増し、文化大革命への共感も示されている。ボーボワールの名誉のために加えておくと、この共感は没批判的で全面的なものではなく、深いところでの懐疑と危惧も表明されている。

60年代後半に発生した学生反乱には、サルトルもボーボワールも積極的にコミットしていき、非合法化された彼らの機関誌の販売を助ける活動もしている。

文化大革命も学生運動もあの当時の「時の流れ」だった。「存在非拘束性」というのは確かサルトルの言葉だったように思う。「自由」は実存主義の真髄だが、その自由も社会や歴史の条件から拘束された存在としての自由であり、そうした条件に立ち向かう自由でしかない。自立と自由をなによりも重んじていた彼らも、時の流れから完全に解き放たれていたわけではななかった。ソ連の崩壊、中国の国家資本主義化の今日まで彼らが生きていたら、どう考え、どう反応するだろうか。

この最終巻は前作のような「理論的」な部分が少なく、比較的読みやすかった。随所に鋭い観察や興味深い記述もあり、ページを読み進めていくのが楽しみだった。

時代にもまれつつも、最後まで自分で考え、自分の意志で生きようとした女性の人生は今でも色あせない。

2016年9月21日水曜日

アフガニスタン 最近のビザ事情(2016年9月)

このブログに記録しているように、私はアフガニスタンを2回訪れた。2013年にタジキスタン経由でイシュカシムという小さな村に入ったのが1回目。そのおよそ2年後、2015年の7月にガイド付きでカブールとバーミヤンを訪れた。

1回目のビザはタジキスタンのホーログで簡単に取得できた。2回目のビザは東京のアフガニスタン大使館に申請し、ガイドを提供してくれた旅行会社(Untamed Borders)のLetter of Invitationを提出することによって入手できた。

それからさらに1年以上経過した今(2016年9月)、このどちらの方法でもビザの取得が難しくなっている。

ホーログでのビザ取得は2015年以降実質的に不可能になった。ドゥシャンベの日本大使館からのレターがないとビザを発行してもらえなくなったのだ。日本大使館がアフガン行きを推薦するレターを発行する可能性はゼロに近い。

他方、東京のアフガニスタン大使館に申請した場合も状況は厳しい。

下記はドバイ在住の若い日本人女性のブログであり、ドバイのアフガニスタン領事館にビザを申請した顛末が記されている。

http://seiwanishida.com/archives/2611

このブログによると、「ビザを申請した際に、他にも2名の日本人の名前が載ったリスト(彼らもまたUntamed Bordersを通じて申請していたらしい)を見たが、彼らもまたビザを取ることができなかったとUntamed Bordersの代表から連絡をもらった」とのことだ。つまりUntamed Bordersの保証があってもビザは貰えないのだ。

ビザを出さないというのはアフガニスタン政府の意向ではない。日本政府がアフガニスタン政府に日本人向けのビザを出さないように要請していることの反映にほかならない。日本の外務省としてはともかくめんどうな事態を避けたいということなのだろう。しかしアフガニスタンにはごく少数ながら観光で生計を立てようとしている人もいる。またどこもかしこもが一律に危険なわけではない。危ないから兵隊だけを送っておけばいいという考えには納得できない。

いずれにしても現時点では、特別なコネでもない限り観光目的でのアフガニスタン訪問はほぼ完全に閉ざされている。比較的最近イラン北方のマシュハドにあるアフガン領事館で日本政府のレターなしでビザを取得してヘラートを訪れたというブログをどこかで見かけたこともあるが、確かではない。

アフガニスタンの最近の治安はどうだろうか。残念なことに私が訪れた1年前に比べて改善のきざしは見えていない。悪くなっているということは言えても、よくなったとはとうてい言えない。最近ではハザラ人の集会を狙った自爆テロが発生し、80人以上が死亡している。この事件はタリバンではなくISによる犯行らしい。

これまで旅行者がターゲットとなるテロは比較的少なかったが、今年の7月末にはヘラート付近をバスで移動中の欧米人のグループが襲撃され多数の負傷者を出している。

Foreign tourists attacked in western Afghanistan
https://www.theguardian.com/world/2016/aug/04/foreign-tourists-attacked-in-western-afghanistan-says-officials

記事からするとこれはちょっと無謀なツアーだっとように思える。まずヘラート付近を陸路で移動することの危険性。次にイギリス人、アメリカ人など、合計12人のグループというのも問題だ。

私がお世話になったUntamed BordersのJamesがこの記事の中でコメントしているように、アフガニスタン国内での移動は原則空路にし、やむをえず(たとえばフライトがキャンセルされたような場合)陸路にするときには二重、三重の措置をとるのが普通だろう。12人のグループというのも大きすぎ、目立ちすぎる。Untamed Bordersでは最大3、4名に抑えているとのことだった。

アフガニスタンは深刻な問題を多く抱えながらも、景色はすばらしく、親切な人も多い。何年待てば、あるいは何十年待てば、普通に旅行できるようになるのだろうか。

2016年9月12日月曜日

アフガニスタン2013 タジキスタンへ戻る

9月23日。

今日はタジキスタンへ戻る日だ。朝8時ごろに朝食を済まし、タジクとの国境へ向かう。宿にタクシーを頼むと20ドルとのこと。来るときは2ドルだったから、これは明らかに高すぎる。20ドルはオフィシャルな価格だ。値切るか、または徒歩で行くという選択肢もあったが、ここは言い値のままタクシーを利用することにした。アフガンに入ってから朝夕食付きの2泊の宿代60ドル以外は一銭も使っていない。アフガン貨幣への両替さえしていない。アフガニスタンのような国を旅行者として訪れたなら、多少はお金を落とすのが礼儀だろう。

写真を撮って貰いたい女の子と撮られたくない女の子

タクシーは8時半頃に国境に到着した。アフガン側の入出国事務所は開いているが、タジク側がまだ開いていないので30分ほど待つ。ここにはアフガンの兵士が30、40名駐屯しており、行進(の練習?)をしているが、どことなく締まりがない。偏見かもしれないが、北朝鮮の中高生のほうがもっとしっかりした行進をするように感じた。

やがてタジク側の入出国事務所もオープンしたので、アフガンを出国してタジクに再入国する手続きを済ます。このときも国境を通過するのは私ひとりだった。アフガン側では例のインターポールの男2人が私の荷物をひとつひとつ調べる。今回は私の許可もなく勝手に私の飴玉を口に入れていた。

タジキスタンへの再入国も問題なかった。タジクの兵士の中にひとり、モンゴロイド系の若者がいたのが目についた。タジク人はほとんどがペルシャ系統だから、こうした東洋系はめずらしい。おそらくタジキスタンには少数のキルギス人も住んでいるのだろう。この若者は私に向かって何か言っていたが、どんなことを言っていたのか忘れてしまった。

タジク側のイシュカシムとホーログをつなぐ道路に出て、10分くらい待つとマルシェルートカがやって来たので、手を挙げて乗車する。途中立ち寄った食堂では同乗の男たちがウォッカを注文し、私もお裾分けに預かった。おそらく彼らもイスラム教徒だろうが、アルコールには抵抗がないらしい。以前フランスで出会ったカザフスタンの女性(司法省の役人とのことだった)との会話が思い出される。モスレムかと聞くとそうだというので、「じゃあ豚肉は食べてないのか」と尋ねる。食べないとの返事だった。さらに「ではアルコールは?」とたたみかけるとと、笑ったまま答えなかった。

この日はホーログに1泊。ひょんなことから民宿に泊まることになった。宿の若い女性とゲストのキルギス人の青年がタジク語でもキルギス語でもなく、ロシア語で話していたのが印象に残っている。

民宿の夕食(ホーログ)

翌朝マルシェルートでカドゥシャンベに向かった。途中、運転手の出身地である村で休憩をとったり、食堂で昼食をとったりしながら、夜遅くドゥシャンベに到着し、運転手に案内されたホテルに投宿した。翌日まる1日をドゥシャンベの観光に費やしてから、イスタンブール経由で帰路につき、このはじめてのアフガニスタン旅行は終了した。

運転手の村でいちじくを食べる

ネットにはイシュカシム滞在時に発生するいろいろなトラブルが報告されている。国境で賄賂を要求された、現地の警察に登録するよう求められた、警察へ出向くもたらい回しにされてなかかか登録できなかった、結構な額の登録料をとられたなどなど。幸い、私はその種のやっかい事には遭遇しなかった。アフガンのイミグレで没収された飴玉4粒の被害で済んだのは運がよかったというべきか。

以下はすでに「アフガニスタン2015 心残りと後日譚」に記載した内容であるが、ここに再掲して結びとしておこう。

イシュカシムから帰国し、ネットで調べているうち、イシュカシムにおける麻薬汚染の深刻さを取り上げた記事を発見した。日系米人の写真家によるその記事は「イシュカシムの成人の半分以上は中毒者」と伝えていた。アフガニスタンでは、機織りなどの過酷な労働を原因とする痛みを和らげるためにアヘンは古くから広く使われていた。だが、内戦が続き、経済が行き詰まる中、そのアヘンやさらにはヘロインが社会の深部にまで度を超して浸透しているのだ。いまやアフガニスタンは世界最大のアヘンやヘロインの生産国であるだけでなく、その最大の消費国でもある。
たった3日間の滞在であるとはいえ、私はいったい何を見ていたのだろう。イシュカシムの牧歌的な風景の裏側にあるもの、平和なたたずまいのすぐ下に潜んでいるものはまったく見えていなかった。

イシュカシムのメインストリート

2016年9月6日火曜日

アフガニスタン2013 イシュカシム二日目

9月22日。

宿でボリュームのある朝食をとったあと、イシュカシムの村の探訪に出る。イシュカシムは標高3000メートルと高地にあるため、空気は澄んでいるが、坂道を歩くと息が切れる。

遙か遠くの山々を背景に小麦を刈り入れている男たちや牛や羊の世話をする女性たち。働いている女性たちはブルカではなく、スカーフで頭を覆うだけ。平和な光景が広がるすがすがしい朝だ。

小麦の刈り入れ

羊の放牧

メインストリートで見かける女性のほとんどがブルカを着用している中、スカーフだけの女性がいたので写真を撮らせてもらう。

スカーフの女性

前日にアフガン・バザールで購入したサモサと夕食に出たリンゴで昼食の代わりとする。朝食をたっぷりとったので腹が減っていない。

午後、村のはずれまで行くと、若い男に声をかけられ、家に招待される。男はカブール在住で、最近この家の女性と結婚したばかりだという。つまりはカブールから妻の実家を訪れたわけだ。家に入り、この家の父親(あるいは祖父)とおぼしき男性、もうひとりの男性と2、3歳の子供を交え、お菓子とお茶をいただく。女性も見かけたが座には加わらなかった。

お茶に招かれる

子供(男の子だとのこと)

英語を話せるのは私に声をかけてきた男性だけらしく、会話はもっぱら彼との間で進行した。

イシュカシムはタジキスタンに隣接していることもあり、住民の大半がタジク人だ。カブール在住の男性もタジク人で、もともとはこの村の出らしい。彼が英語を話せるのは、カラチ(パキスタン)のアガ・カーンの大学で学んだからだという。アガ・カーンはイスラム教イスマイリ派のリーダーだ。アガ・カーンの信奉者はインドやパキスタン、中央アジアに多い。タリバンの攻撃を数回受けたカブールのSerena Hotelはアガ・カーン財団が建てた高級ホテルだ

男性にアフガニスタンの治安を尋ねる。北部でもクンドゥーズは「パシュトゥーンが入り込んでいるので危ない」とのことだった。パシュトゥーンとはタリバンを指す。タリバンにパシュトゥーン人が多いことは確かだが、タリバンがすべてパシュトゥーンというわけではなく、パシュトーンがすべてタリバンというわけでもない。現にカルザイ前大統領もパシュトゥーンだ。

男性からカブールの住所やメールアドレスを教えてもらったが、帰国後にどこかで紛失してしまった。このため2年後にカブールを訪れたときに連絡をとることはかなわなかった。

村の子供たちの写真をとりながら、メインストリートに戻る。子供たちの多くは学校に通っているようだ。10年生用の英語の教科書を見せてもらった。「I am a journalist. I graduated from the Kabul University.」といった文から始まる内容だった。

学童

10年生用の英語の教科書

おもしろいのは女の子たち。「(写真に)撮られるのはこわいけど、撮ってほしい」というジレンマがみえみえだ。カメラを向けると一目散に逃げていくが、やがてまたじりじりとこちらのほうに歩み寄り、結局写真を撮るはめに。あとで撮った写真を見ると、遠くにブルカ姿の女性が2人歩いている。この子たちが大きくなったときには、ブルカなど着用しなくてよい世の中になっていることを願う。

女の子たち

メインストリートのある店で、この地にはめずらしく髭をたくわえていない中年の男性から声をかけられ、お茶を飲みながら話す。マザーリシャリーフから来た石油エンジニアとのこと。中国と共同で石油の探索を行っているという。「ここらあたりはアフガニスタンでももっとも貧しい地域だ。見ればわかるだろう」と言うが、ここ以外のアフガニスタンを知らない私にとっては判断のしようがない。子供や大人の物乞いであふれているバングラデシュやエチオピアに比べれば、そうひどい状態だとは思えない。

当時のカルザイ政権を「Very good government」と評価する男性は、「来年4月の大統領選挙が心配だ」と言う。その後の経緯を見れば、この男性の心配は的中したとも言えるが、ともかく武力衝突という最悪の結果が避けられたことでよしとするしかないだろう。

クンドゥーズの情勢については「まったく問題ない」と断言していた。カブール在住の男性と正反対の見解だが、その後の展開は残念ながらカブール在住の男性のほうに軍配をあげている。

ゲストハウスの夕食はこの日もたっぷりあり、すべて平らげることは不可能だった。鍵かかっていない無防備の部屋でたったひとり、アフガン二日目、そして最後の夜を過ごす。

2016年8月29日月曜日

アフガニスタン2013 イシュカシム(アフガニスタン)

9月21日。

パミールロッジで朝食をとったあと、昨日確かめておいた乗り合いタクシー(ロシアや中央アジアではマルシェルートカと呼ばれている)のたまり場に向かい、イシュカシム(タジキスタン)行きのタクシーを見つける。客がある程度集まるまでタクシーは出発しない。小一時間は待っただろうか。7、8人の客が集まったところで出発。客の中にはフランス人のカップルもいる。毎土曜日に国境で開かれるアフガン・バザールを見に行くとのこと。

国境を隔てたタジキスタン側の村もアフガニスタン側の村もどちらもイシュカシムという名前だ。ホーログからアフガンに入るにはタジク側のイシュカシムの少し手前の橋のたもとで下車する必要がある。アフガン・バザールもここで行われている。

国境に通じる橋のたもとで乗り合いタクシーを降り、バザールの見物もそこそこにタジキスタンの入出国事務所に向かう(バザールでは昼食用の軽食を購入した)。タジク側の出国検査は問題なく通過。続いて数十メートル歩き、アフガニスタンの入出国事務所に赴く。

アフガン・バザール

今日はアフガン・バザールが開かれる土曜日なので、多くのアフガニスタン人が国境を往復している。しかし彼らは窓口で身分証明書を提示するだけで国境を通過しており、わざわざ事務所まで入って手続きをするのは私以外にいない。手続きはごく簡単だったが、インターポール(国際刑事機構)を名乗る男2人が私のバックパックを念入りに調べる。「これは仕事だからな」と言い訳しながら荷物をひとつひとつ取り出す。2GBのSDカードを見つけると、「なぜもっと容量の大きいSDカードにしないのか」と聞く。大きなお世話だ。彼らが荷物を点検している間、私はバザールで買ったサモサ(?)を食べて昼食とした。

「(日本という)豊かな国から来て、我々へのおみやげ(gift)はないのか」と聞かれたが、「ない」と答えて終わりだった。日本から持ち込んだ飴玉を所望されたので、1つずつ渡す。最後にひとりが自分の名前を紙片に書いて渡し、写真を撮るようにと要求する。望みどおり彼の写真をカメラに収めたところで事務所から出ていいことになった。

なんともふざけた(自称)インターポールの男たちだった。おそらく暇つぶしだったのだろう。バザールのために事務所の前を通過するアフガン人は多いが、事務所の中は数人の係官と私だけ。この国境を通過する外国人は平均して1日に1人以下ではないだろうか。時間をもてあましているのもむべなるかな。

入出国事務所を出て、アフガンの土をはじめて踏みしめる。砂利道がザクザクと音を立てる。遠くには山頂に雪を戴いた山脈。それを背景に旧ソ連軍の戦車の残骸が見える。陸路での国境越えはこれまでに何回かあるが、どれもバスやタクシーを使っての越境であり、徒歩で国境を渡るのははじめてだ。

戦車の残骸

しばらく歩くと、後ろから来た車が停まる。イシュカシム(アフガン側)の村まで乗っていかないかとのことだった。料金は確か2ドルくらいだった。村までは3、4Kmだから歩けないことはないが、ここは楽をすることにした。

村の中心と思われるバラック建ての店が並んでいる通りで車を降りる。泊まるところはMarcopolo Guest Houseに決めていた。事前にネットで調べて見つかったイシュカシムでの唯一の宿泊場所だ。タクシーを降りたところにいた若者にこのゲストハウスの所在地を尋ねる。ちゃんと英語が理解され、英語で返事が返ってくる。

村の中心からマルコポーロ・ゲストハウスまでは歩いて10分たらずだった。宿への入口がわからずうろうろしていると、近所の女性が無言で案内してくれた。宿に入り、部屋に入っても誰もいない。しかししばらく待つと、中年の男性と7、8歳の男の子がお茶とお菓子を持ってやってきた。これで一安心。朝食と夕食を含めて1泊30ドルとのこと。2泊することにした。ベッドは私の入った部屋に2つ、その隣の部屋にも2つ。部屋はそのほかにもありそうだが、客は私ひとりらしい。

しばらく休んでから村の中心に出る。自分の家の周辺では素顔を出している女性たちも外出するときはほとんどブルカを着用している。アフガニスタン来たことを実感できる風景だ。

ブルカの女性

村の様子を見ながらぶらぶらと歩く。外国人がめずらしいのか、ときどき声がかかる。写真は思っていたより自由に撮れた。店でのやりとりや子供たちの反応を動画に収める。

メインストリート1

メインストリート2

子供たち

そうこうするうち日も暮れてきたので宿に戻る。7時頃に夕食が運ばれてくる。結構なボリュームだ。パン(ナン)と大盛りのライス。スープ、チキン、リンゴ、ジュースなど。とても食べきれる量ではない。後ろめたいが、かなり残すしかなかった。リンゴは翌日用にとっておいた。

夕食

部屋にはラッチ式の鍵があったが、うまくかからない。表の門にはもともと鍵がない。物音ひとつしないアフガニスタンの山の中、たったひとりで鍵のない場所に眠るのに不安がなかったと言ったら嘘になる。

2016年8月23日火曜日

アフガニスタン2013 ドゥシャンベからホーログ(タジキスタン)へ

2013年の9月にタジキスタンを経由してアフガニスタンへ入国した。おぼろげになっていく記憶をたどり、このはじめてのアフガニスタン旅行を記録しておきたい。

アフガン行きを思い立ったのはかなり前になるが、実際に検討すると障害が大きい。ひとつは治安であり、もうひとつはビザ。あれこれネットで検索するうち、この2つをうまくクリアする方法が見つかった。タジキスタンのホーログからアフガニスタンのイシュカシムへ入るルートだ。アフガニスタン北東部、パミール高原につながるイシュカシム周辺はタリバンの触手が及んでおらず、アフガニスタンの中でも比較的安全とされている。これまでに大きな事件も報告されていない。そのうえイシュカシムに近いホーログのアフガン領事館ではビザを簡単に取得できるというではないか。やっかいなのはタジキスタンの首都ドゥシャンベからホーログまで車で10数時間かかることと、ホーログ自体の治安がそれほど安定していなこと。しかしこれくらいの困難はどこを旅行してもありうることだ。

というわけで、関空からドゥシャンベまでの往復航空券を購入した。トルコ航空便で9月19日早朝にドゥシャンベに着き、9月26日早朝にドゥシャンベを発つことになる。往路も帰路も経由地のイスタンブールで長時間待機しなければならない。

ビザはホーログで入手可能とはいえ、日本で取得できればそれに越したことはない。ドゥシャンベ行きの航空券を購入してから、東京のアフガニスタン大使館にビザを申請した。ところがいつまで経っても返事が来ない。電話で問い合わせると、本国に問い合わせ中とのこと。2週間待った時点で、ビザ未発給のままパスポートを自宅まで送り返してもらった。ドゥシャンベ行きが迫っており、いつまでも待つわけにいかなかったからだ。

かくてアフガン・ビザがないまま、9月19日の早朝にドゥシャンベ空港に降り立った。さてここからホーログまでどうやって行くか。日程が限られているから、効率的に動く必要がある。飛行機を利用したいところだが、19日の便には間に合いそうにない。10数時間かかるといはいえ、乗り合いタクシーで行くのがもっとも確実で、もっとも早いだろう。

ドゥシャンベからホーログまでの乗り合いタクシーの料金は800ソムニだった。あとで調べてわかったことだが、かなりぼられてしまった。着いたばかりで物価の水準や相場をまったく知らないうえ、運転手やその仲間数人を相手にロシア語での交渉だからどうしても不利になる。

午前10時頃に出発したタクシーは翌日の午前1時を過ぎにホーログに到着した。ドゥシャンベからホーログまでは岩肌の壮大な景色が続く。川を挟んだ向こう側はアフガニスタンだ。この絶景も昼のうちはよいが、夜になるとちょっとこわい。運転しているのは60~70歳くらいの高齢の男性ひとり。夜の暗闇の中、道を踏み外せば谷底に落ちてしまう。

ドゥシャンベからホーログまで

タクシーは私が希望した安宿のパミールロッジまで乗り付けてくれた。この宿にたどり着くまでに30分くらい右往左往したが、他の乗客からの不満や不平は聞かれなかった。8人くらいの客が乗り合わせていたが、道中は全員が家族さながらだった。一緒に食事をとり、赤ん坊や子供の世話は全員で見る。

道中(女性が抱いているのは自分の子供ではない)

真夜中だったが宿にはまだ灯りがついており、幸い空き部屋もあった。部屋に入ってベッドの横たわったのは2時過ぎだっただろうか。

翌日。まずやるべきことはアフガニスタンへのビザを入手することだ。アフガン領事館は宿から歩いて10分たらずのところにあった。金曜日なのでひょっとすると領事館が閉まっているかと案じていたが杞憂だった。

アフガン領事館

ビザは簡単に取得できた。領事館の中には入らず、正門の窓口を通じて女性の係員が対応してくれた。領事館の外に設けられた小屋の中で申請書に必要事項を記入し、入国を希望するレターを書く。これらを提出のうえ、近くの銀行で100ドルを納付すればほぼ即座にパスポートにビザが貼付される。3日後の発給でよければ料金は50ドルとのことだったが、もちろん私にはそうした時間的余裕はない。即日発行と3日後の発行で手続きに相違があるとは考えられず、おそらくエキストラの50ドルは領事館の小遣い稼ぎなのだろう。

聞くところによると、2015年に入ってから、ホーログ領事館でのビザ申請にも日本外務省(大使館)のレターが必要になったらしい。つまりホーログでのアフガン・ビザ取得の道も閉ざされたわけだ。

肝心のビザを入手できたかことから、気楽にホーログの観光を楽しむことができた。ホーログは山に囲まれた小さな町だ。規模は小さいがマーケットもある。反政府活動(麻薬を巡る縄張り争いだという見方もあるが)でたびたび銃撃戦が起こるような気配はなく、のんびりと平和で、中央アジアらしい趣があった。

ホーログ1(マーケット)

ホーログ2

アフガニスタンのイシュカシムと接するタジキスタンの町もイシュカシムと呼ばれている。そのイシュカシム行きの乗り合いタクシーの発着場を確かめてから宿に戻る。いよいよ明日は念願のアフガン入国。高まる気分と一抹の不安。

2016年7月11日月曜日

エリトリア2008 再びアスマラ、帰国

2008年12月25~28日。

翌日マサワを発ってアスマラへ戻ることにした。帰国日は28日だから、マサワにもう1泊する余裕は十分にあったのだが、昨日の経験からアスマラまでの足がなくなることを心配したのだ。いつも短期の旅行ということもあり、こと行程に関する限り、私は過剰に慎重になる傾向がある。もっとも、これまで大きなトラブルに遭遇していないのは、この慎重さのおかげだとも言える。

朝の9時過ぎに宿を出て、道を尋ねながら、バス乗り場とおぼしきところへ向かう。冬の朝だというのにマサワはすでに30℃を超えており、じっとりと汗が出てくる。マサワは世界でもっとも暑い場所のひとつということだった。

エチオピア軍の戦車の残骸が展示してある場所を通り過ぎる。残骸は5、6台はあっただろうか。さらにしばらく行くと、小さな路上マーケットに遭遇した。女性たちが並んで野菜や果物を売っている。女性たちの服装はカラフルだが、売られている人参、玉葱、トマトなどはあまり育ちがよくなく、小さかった。

戦車の残骸

路上マーケット

バス乗り場の近くにさしかったとき、私を呼ぶ声がする。昨日のタクシーの運転手だ。彼もマサワで1泊して今からアスマラへ帰るところだった。帰りは安くするのでと言うので、このタクシーでアスマラに戻ることにした。料金は忘れたが、たぶん500円以下だっただろう。運転手としては昨日ですでに元はとっているから、どんな値段でも空車で帰るよりはましと思ったのだろう。

途中、小さな村で休憩する。生きた鶏を抱えた13、4歳の少女が私に近づいてきて、鶏を食べるしぐさをする。買わないかということらしい。おいおい私は観光客だよ。生きた鶏を買ってどうしろというのか。

小さな村で休憩

タクシーはここでさらにエリトリア人の女性3人の乗客を拾い、アスマラに戻った。アスマラではKhartoum Hotelに再度投宿した。予約はしていなかったが、部屋はいくつも空いているようだった。

この日から帰国まで3日間をアスマラで過ごした。この滞在中の出来事や印象をいくつか記しておこう。

エリトリアは貧しい。これといった天然資源も産業もないうえ、エチオピアとの戦争で極限まで疲弊している。軍事支出は今でもGDPの20%を超える。これで貧しくないとすればそちらのほうが不思議だろう。だが、街並みはきれいで、道路にはほゴミがほとんど落ちていない。物乞いはいるが、アグレッシブではない。ストリートチルドレンは1組見かけただけだ。児童の就学率もそれほど低くはなさそうだ(アスマラでは数多くの制服姿をみかけた)。一見したところ「世界最貧国のひとつ」とは思えない。

貧しさの中でのこうした規律と秩序は「エリトリア人の矜恃」によって説明されることが多い。俗に言う「武士は食わねど高楊枝」だ。マサワへ行くときに出会ったイタリア人のカップルも同意見だった。アフリカのいくつかの国での滞在経験がある彼らは「(エリトリア人は)アフリカの中でもベストだ」と言う。誇りが高く、我慢するすべを知っており、勉強にも熱心らしい。

だが、1991年の独立以来一党独裁が続く抑圧的な体制がエリトリア社会の規律や秩序と関係していると見ることはできないだろうか。北朝鮮の街にゴミが落ちていないのと同じ理屈だ。エリトリアはしばしば北朝鮮と比較される。報道の自由に関しては世界最下位、北朝鮮より下にランクされたこともある。

といっても、北朝鮮に比べればエリトリアは「普通の国」だ。地方に出かけるには許可がいるものの、自由に歩き回り、行きたいところに行くことができる。現地の人と話すのに何の支障もない。タクシーに乗ったとき、「アスマラにはタクシーと写真屋が非常に多いが、どうしてだ」と運転手に尋ねたことがある。運転手は「ほかに仕事がないからだ」と自嘲気味に答えた。こうした不満の表出は北朝鮮では考えられない。タクシーの運転手とカジュアルに話すこと自体が不可能だ。

エリトリアでは英語が比較的よく通じた。この点はのちに訪れたエチオピアやソマリランドと似ている。

アスマラで印象に残ったのは金属類のリサイクル・マーケットだ。鍋や釜、工具、自動車や自転車の部品などが山のように積まれ、リサイクルのために再加工されている。過酷な環境の中、小学生くらいの子供も働いていた。

金属のリサイクル

アスマラにある唯一の中華料理店にも行ってみた。何年か前には中国人のシェフもいたが、今は現地人だけでやっているとのこと。卵スープ、チャーハン、酢豚を注文したが、中華とば別の代物だった。見かけさえ似ていない。店のマネージャーに話しかけられる。以前はアディスアベバのホテルで働いていたらしい。「日本人の客も多く泊まっていた」とのことだった。

子供たちの写真もたくさん撮った。向こうから近づいきて、写真を撮ってくれと言う。写真を撮ると「Thank you」というお礼の言葉が返ってくる。

子供1


子供2

子供3

12月28日、アスマラ空港を飛び立ち帰国の途についた。行きと同様、サウジアラビアのジェッダを経由してフランクフルトまで飛び、フランクフルトで関空行きに乗り継ぐルートだ。行きとは異なり、フランクフルトで1泊する必要はなかった。

アスマラ空港の出国審査ではちょっとしたトラブルに遭遇した。入国時に申請した現金、アスマラで両替した額、残りの手持ちの現金が整合しなかったのだ。これは入国時の申請がいい加減だったからだが、まさか出国時にここまで厳しくチェックされるとは予想していなかった。幸いなこに、30分ほど留め置かれ、「今度入国するときにはこのようなことがないように」とのお叱りを受けただけで済んだ。あとでネットで調べると、同種のトラブルで2時間くらい留め置かれたケースもあるようだ。

何枚かの音楽CDを土産に、はじめてのアフリカ旅行はこのようにして終わった。心残りは、マサワをあまりにも早く切り上げたこと。じっくりとマサワを見るにはもう1泊が必要だった。

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