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2015年12月2日水曜日

東チベット2015 5月6日(マルコム)

早朝5時15分に成都老栄国際青年旅舎をチェックアウトした。外はまだ暗かったが、タクシーは宿を出るとすぐにつかまった。茶店子バスターミナルまで28元。前日に宿のスタッフから聞いたとおりだ。5時30分ごろにターミナルに着いたが、まだ開いていなかった。ターミナル前にはすでに2、30人集まっており、朝食の屋台も出ている。おかゆとマントウで朝食をとる。おかゆはそのままではおいしくなく、備え付けの砂糖を入れた。

おかゆとマントウ

ターミナルは6時にオープン。6時30分発の馬爾康(マルカム)行きの切符を買う(118元)。マルコム行きのバスは6時30分から13時30分まで、1日に4、5本あった。よほどのことがない限り、切符は当日でも余裕で購入できそうだ。

マルコム行きのバス

マルコムには午後1時ごろに着いた。まずやるべきことは明日のラルンガルゴンパ行きのバスの切符を購入すること。ラルンガルゴンパに行くにはその少し先の色達(セルダあるいはスーダ)までの切符を買うことになる。ラルンガルゴンバで下車してもいいし、色達まで行って翌日にラルンガルゴンバに戻ってもいい。夜遅く着くようだったら、色達まで行ったほうが宿を探しやすい。

成都からのバスが到着したターミナルと色達行きのバスが出るターミナルは別であり、それぞれ細長いマルコムの街の西端と東端に位置している。歩けば30分以上はかかりそうだ。荷物を抱えていることもあり、タクシーを利用する。色達行きのターミナルに到着すると、タクシーの女性運転手は「(バスは)今天没有」と言う。午後からの色達行きのバスがないことはわかっていた。おぼつかない中国語で「明天の切符を買うつもりだ」と答えた。

切符売り場の窓口には誰もいない。切符売り場の奥の事務所に数人いたので尋ねると、「等一下」(しばらく待て)と言う。待っていると窓口の女性が戻ってきた。翌朝7時20分発の色達行きの切符を購入(83元)。マルコムから色達のほうが成都からマルコムより距離は長いが、料金は安かった。

宿はターミナルの近くにとった。シャワー・トイレ・テレビ付き。Wifiなしの賓館で100元。鍵ももらえない。鍵を要求すると、鍵を渡すとなるとデポジット(押金)が必要とのこと。翌朝7時ごろには宿を出たいので、デポジットを返してもらう手続きもおっくうだ。鍵なしで宿泊することにした。吉林省の延吉でもこうした鍵なしの旅社に泊まったことがある。鍵なしがあたりまえということは、盗難などまず発生しないのだろう。外国人を宿泊させる許可を得ていない旅社や招待所ではこうした鷹揚な(悪く言えばいいかげんな)ところがある。パスポートの提示を求められることもない。

かなり遅めの昼食を宿に近い小さい食堂でとった。回鍋肉(ホイコーロー)。ライスを付けてちょっと高めの25元。まずくはないが、味が濃すぎた。何かのきっかけで女主人と会話になり、日本から来たことを告げると、別のテーブルで食事をしていたチベットの民族衣装のおばさん2人が私に笑顔を向けてきた。いい感じだ。

腹もいっぱいになったところで、マルコムの街を散策。見るべきものは何もない街だと聞いていたが、それなりに趣があり、歩いていて飽きない。ある公的な建物の看板に「阿坝藏族羌族自治州」とあった。ここには羌族(チャン族)も住んでいるらしい。

気象関連の施設の看板

ラルガゴンパや色達はチベット族が多いだけに、中国政府も相当気をつかっており、チベットの政治状況次第で外国人が入れなくなることもある。だから今回もラルガゴンパまで行けない最悪のケースも想定していた。万一行けなかった場合には、同じく四川省にある桃坪村のチャン族を訪れるつもりだった。

といったわけでチャン族には興味があったのだが、詳しい情報は持っていなかった。知っていたのはチャン族もチベット語族に属することくらい。マルコムで見かけたさまざまな民族衣装のなかでどれが本来のチベット族のもので、どれがチャン族のものか、私には判別できない。チベット僧の服は一目瞭然だが。

チャン族、チベット族?


散策を続け、メインのストリートや市場などをぶらつく。

マルカムの市場

マルカムのメインストリート

マルカムの子供たち1

マルカムの子供たち2

夕食は宿の近くの別の食堂でとった。青椒肉絲飯。青椒肉絲とライスが別になっているのでなく、青椒肉絲入りのチャーハンだ。12、3元だったかな。よく覚えていない。中国の食堂ではどうしてもお馴染みの料理ばかり注文してしまう。

2015年11月30日月曜日

東チベット2015 5月5日(成都)

2012年3月に雲南省の元陽、6月に新疆ウイグル自治区のウルムチ、カシュガル、ホータン、2014年4月に貴州省の凱里を訪れた。北朝鮮へ行くついでながら2013年には遼寧省の丹東、2014年には吉林省の延吉も訪れている。元陽のハニ族とイ族、新疆ウイグルのウィグル族、貴州省のミャオ族、そして丹東と延吉の朝鮮族と、どれも少数民族に関係した道行きだ。中国には56の民族があるとされている。漢族以外は少数民族といえよう。これらの少数民族を探訪することは私の旅のテーマの1つだ。

さて次はチベット族だ。チベットというからにはラサを首府とするチベット自治区に行くのが本道なのだが、チベット自治区には許可証なしでは入れない。許可証と得るのに時間がかかるうえ、ガイドを付ける必要もあるらしい。時間的にも金銭的にもこれではきつい。四川省の東チベットになら許可証なしで行ける。ネットで見たラルンガルゴンパの写真から受けたインパクトも大きかった。

ラルンガルゴンパ(喇栄五明仏学院)

東チベット旅行の起点となるのは四川省の省都である成都だ。5月5日、中国東方航空の便で夜の9時40分に成都に到着し、booking.comを通じて予約してあった成都老栄国際青年旅舎にチェックインした。トイレ・シャワー付きのシングルルームで1泊128元。成都にしてはちょっと高めだ。3年前に宿泊した成都駅近くのユースホステルはトイレ・シャワー共同ながらテレビ付きで1泊50元だった。

まず目指すのはラルンガルゴンパだが、標高4000メートルということもあり、バスで一気に行かずに、途中の馬爾康(マルカム)で1泊することにしていた。マルカムは標高2600メートル。高地の薄い空気に体を慣らすにはちょうどいい。一応高山病の予防薬は入手してあったが、利尿の副作用があるから、バスに長時間乗るときにはあまり飲みたくない。

マルカム行きのバスが出ているのは茶店子バスターミナルらしい。受け付けの女性に明朝朝早くチェックアウトすることを告げ、東チベットの地図を購入した(値段は忘れたが10元くらいだったかもしれない)。早朝だからバスターミナルに行くにはタクシーを利用するしかない。朝5時ごろでもタクシーは簡単につかまるとのことだった。

近くの超市で夕食代わりのお菓子を購入し、宿に戻るとすでに12時近くになっていた。明日の朝は早いのになかなか眠れなかった。

2015年11月29日日曜日

北朝鮮鉄道の旅2015 Johnathanから送られてきた写真

ツアー仲間であるベルリン在住のイギリス人Jonathanから今回の旅行の写真や動画を大量に受け取った。私のように1万円そこそこのカメラではないので、街や鉄道沿線、列車内の様子を高画質でとらえている。いくつか紹介しておこう。

清津の幼稚園で
歌や踊りのパフォーマンスを披露した園児たちとOksana。

平壌の地下鉄
車両の上にあがって補修作業をしている。私はこの光景には気づかなかった。覚えがない。

地下鉄のプラットフォームで
地下鉄のプラットフォームには労働新聞が掲示されている。子供たちの表情がいい。

食堂車のキッチン
私はここまでは覗かなかった。料理人は女性で、よく歌を歌いながら料理していた。

車窓から1
似たような写真は私も撮っているが、ここまで鮮明には撮れていない。

清津トロリーバスの中で
車掌と見習いガイドの深。深は金日成総合大学出身。最近のスタイリッシュな平壌女性の典型ともいえよう。

車窓から2
日本では稲刈りは8月下旬から9月上旬にかけてだが、北朝鮮は10月上旬の時点で稲刈りが始まったばかりの様子だった。農耕と運搬に牛は欠かせない。

コンパートメント内の様子1
香港籍の中国人Lloydと私。

コンパートメントの様子2
左からOKsana、Raymond、私。

車窓から3
どこだろう。咸興の近くかな。確かでない。

車窓から4

ここでも牛が。これもどこだかよくわからない。
 

2015年11月27日金曜日

ソマリランド2011 再びハルゲイサへ

1月30日。ベルベラを1泊で切り上げ、ハルゲイサへ戻ることにした。

朝、ホテルを出て、通りすがりの老人に乗り合いタクシーの場所を尋ねる。ここでもちゃんと英語が通じる。老人はタクシーが停まっている場所まで歩いて案内してくれた。途中、通りの真ん中で、40歳くらいの女性が上半身裸で何かわめいていた。老人は「クレージーだから、こっちの道を行こう」とその女性を避けた。もう少し様子を見ておきたかったが、そうもいかない。
ベルベラ


タクシーの座席が埋まるまでしばらく待つ。待っている間に、道端で売っていた魚の唐揚げを朝食代わりに食べる。ハルゲイサまでの料金は行きと同じで6ドル。席が埋まって出発したタクシーはなぜか警察署に寄り道し、私は警察署の中に案内される。私に応対した平服の職員は友好的であり、別に不安はなかったが、なぜ警察署に立ち寄る必要があるのか不可解だった。警察署長とおぼしき人の部屋まで案内されたものの、挨拶しただけだった。推測するに、タクシーの運転手は、外国人がボディガードなしでソマリランド国内を移動するのに必要なletter of permissionを取得させるために警察署に案内したのではないかと思う。しかし私はハルゲイサですでにletterを手に入れていた。挨拶だけで終わったのもこのためかもしれない。あるいは何か登録するようなことがあったのかもしれない。

魚の唐揚げを売っていた女性(タクシーの窓から)

ハルゲイサへ戻り、今度は市の中心部にあるOriental Hotelにチェックインした。これは外国人旅行者の間ではおそらくもっともよく知られたホテルだろう。トイレ・シャワー、衛星テレビ付きのシングルルームが1泊15ドル。ちょっと高めだが、朝食が付く。

街に出ると、相変わらず道行く人が声をかけてくる。ある老人につかまって路上でちょっと会話。というか老人が一方的にしゃべった。サウジアラビアから来たというその老人は私にアラーの偉大さを説く。「お前はどうしてこの世に存在しているかわかるか。パパとママのおかげで存在しているのではない。神のおかげで存在しているのだ。」老人の演説につられて10数人のソマリランド人が集まってくる。

この老人とは別の場所で再度出会った。そのときには「私の祖母は日本のエンペラーと親戚だ」と言っていた。サウジアラビアから来たというのもたぶん妄想だろう。

「チャイナ」とか「チャイニーズ」と言われる場合も多い。「ニイハオ」も少なくない。最初は「中国人ではなく、日本人だ」と抗議していたが、どうでもよくなってこちらも「ニイハオ」と応じることもあった。「チャイナ」と呼びかけてきたある青年に「間違えるな」と抗議すると、「俺が日本に行ったとして、誰もソマリランド人として認識してくれないだろう。アフリカ人とひとくくりにされるに違いない。それと同じだ」と言い返された。そうかもしれないが、私を中国人とみなすのは明らかに間違いであるのに対し、彼をアフリカ人と呼ぶのは不精確ではあっても間違いでない。いずれにしても、街を歩いている普通の人たちとこうした会話を英語で交わせるのがソマリランドだ。

カフェでお茶を飲んでいてもすぐに誰かが話しかけてくる。彼らが聞きたがるのは、ソマリアに比べてソマリランドがいかに安全であるかだ。「ソマリアには行かないのか」と尋ねられ、「Somalia is too dangerous to travel」と答えると、周りがドッと笑う。そんななかでも、貧しいソマリランドでは学校に行けない子供も多いと嘆いていた青年の言葉が心に残っている。

ベルベラで1泊しかしなかったこともあり、翌31日に予定より早くソマリランドを離れることにした。乗り合いタクシーが集まっているところにはバスで行かなければならない。Oriental Hotelのオーナーがバスの停留所まで案内してくれた。

Oriental Hotelの朝食

エチオピアとの国境があるWajaleeまでの乗り合いタクシーの料金は6ドル。なぜか最初に乗り込んだタクシーから別のタクシーに移動させられた。こうした指示や料金の支払いはすべて同乗のおばさんたちがやってくれた。タクシーに座ってから外を見ると、2人の男が取っ組み合いのけんかを始めていた。どうも私のことでけんかしているらしい。あれやこれやでしばらく待ったが、かなり年をとった老人が運転するタクシーは道とはいいがたい砂漠のような土地を走り、無事国境までたどり着いた。
Wajaleeまで


ソマリランドからの出国、エチオピアへの入国は何の問題もなかった。この日は国境からミニバスで2時間ほどのジジガ(Jijiga)で1泊することにした。ジジガはエチオピアの中にあるが、住民の大半はソマリア人だ。言語がソマリア語で宗教がモスレムというのはソマリランドと同じだが、雰囲気はソマリランドとちょっと異なる。写真も自由に撮れた。

ジジガのマーケット

ジジガで1泊、ハラルで1泊、さらにディレ・ダワ(Dire Dawa)で1泊してアジスアベバへ戻り、しばらく滞在してから帰国の途についた。

2015年11月25日水曜日

ソマリランド2011 ベルベラ

1月29日。ソマリランド3日目。

今日はベルベラへ行く日だ。ベルベラはハルゲイサから160kmほど離れた港町で、車で4時間ほどかかる。ベルベラ行きの乗り合いタクシーはすぐに見つかった。料金は6ドル。タクシーは座席がすべて埋まるまで出発しない。

1時間くらいは待っただろうか。座席がやっと埋まり、出発。半分砂漠のような荒涼とした光景が続く。カラフルなのは「アフリカの花」と呼ばれるプラスチック袋のゴミくらいだ。途中何回かパスポートのチェックがあった。そのつどパスポートと昨日入手したletter of permissionを見せる。

昼食のための休憩をはさみ、車はやがてベルベラに着く。

車から降りるやいなや、近くにいた老人が学校の制服を着た5、6人の少年に「この人をホテルに連れていってやれ」と指示したようだった。どのホテルかもわからず、少年たちについていく。5分ほど歩くと、ホテルらしき建物にたどり着く。バス・シャワー付きのシングルで1泊9ドルとのこと。もっと安いホテルもあるかもしれないが、そう悪い部屋でもないし、どこを探すというあてもないので、ここに泊まることにした。

少し休んでさっそく街に出る。ハルゲイサでも多くの人が声をかけてきたが、ベルベラは度を超えていた。もっとも多いのは「How are you?」という挨拶だ。歩きながら、「Good、Good」とひっきりなしに返事しなければならない。


ベルベラ1

ベルベラ2

ベルベラ3

ベルベラ4

ベルベラの子供たち

道端でお茶を一杯飲もうとすると、人が集まってくる。私がお茶を飲むのを10人以上のソマリア人が見守っている。携帯電話を出して私の写真を撮る人まで出てくるしまつ。注目されるのはいいが、これはちょっと疲れる。

ソマリランドで写真を撮るのに神経を使う。被写体でもない周りの人から「撮るな」と言われることも少なくない。女性を撮るときには特にそうだ。ハルゲイサでは、承諾を得たうえで4、5人の若い女性を撮ろうとしていたところ、周りの誰かからストップがかかった。

そのくせ私の写真は許可なしで撮る。私も遠慮せずにチャットを売っている女性の写真を撮った。チャットはカートとも呼ばれる葉っぱで、覚醒作用をもたらす一種の麻薬だ。といっても麻薬効果はごく弱いため、エチオピア、ソマリランド、イエメンはもちろん、日本や米国でも非合法ではない。効果が弱いから、大量の葉っぱを長時間かみ続ける必要がある。多くの男たちが午後の長い時間をチャットをかむことに費やすのが労働生産性にいいわけはない。イスラム教徒の男たちにとって酒の代用となっているようだが、経済に与える悪影響は酒よりも大きいかもしれない。

チャット売りの女性

海岸にはほとんど人がいなかった。泳ぐには寒すぎる。もう少し探訪すれば廃船が停泊している光景も見られたかもしれない。

街を歩いていると、黒いベールを被った女子高生らしき6、7人が私のほうに近づいてくる。そのうちの1人が「ハロー」と言いながら、私のほうに手を差し出す。当然握手する。と、手を握った瞬間、相手はすばやく手を引っ込め、全員がワーと蜘蛛の巣を散らすように逃げ去った。あれはいったい何だったのだろうか。

夕食を済ませてホテルに戻ると、ロビーのテレビがアジアカップ決勝戦を放映していた。日本対オーストラリアだ。部屋にはテレビがないので、ホテルの受け付けの男性と別の宿泊客1人と一緒に観戦することにした。どちらも英語をしゃべる。ソマリランドはイギリスの旧植民地であったうえ、diasporaが多いこともあり、英語がかなり通じる。受け付けの男が「俺はオーストラリアを応援するが、お前はどちらを応援するのか」と聞く。「日本人だから、日本を応援する」と答えておいた。ほんとうはどちらでもよかったのだが、「どっちでもよい」ではあまりにそっけない。このときの試合は日本が勝った。

当初はベルベラに2泊する予定だったが、ごく小さな街であるうえ、注目度の高さに疲れたこともあり、1泊で切り上げることにした。翌日丸1日をこの街で過ごすことが少し重荷に思えたのだ。

ソマリランド2011 ハルゲイサ2

1月28日。ソマリランド二日目。

ソマリランドでは首都のハルゲイサに加えて、アデン湾に面する港町のベルベラをも訪れるつもりだった。当時、外国人がハルゲイサからベルベラへ向かうときにはAK47で武装したボディガードを雇う規則になっていた(現在ではベルベラに関する限りこの規則はなくなったと聞く)。ボディガードを付けるのだから、車も専用車になる。ベルベラに宿泊するとすれば、ボディガードの宿泊費まで出さなければならないだろう。これでは費用がかさんでしまう。しかし抜け道はある。警察でletter of permissionをもらえば、ボディガードなしで移動できるのだ。

明日はベルベラへ行く予定なので、まずはそのletter of permissionを手に入れなければならない。ホテルの近くに警察署があるが、letterは郊外の警察署本部でしか取得できない。ホテル近くの警察署で本部の所在場所などを聞いていると、運良くこれから本部へ行くという車があり、同乗させてもらうことができた。タクシーで行けば5ドルかかるうえ、外国人が本部に入るのは容易でないと聞いていたので、これはありがたかった。letterの作成には小一時間かかった。

バスでハルゲイサ市街に戻り、レストランで昼食をとる。肉とライス。肉は山羊だろうか。500シリング札を数十枚出して支払いを済まし、外へ出る。するとレストランの店員が追いかけてくる。札が1枚多かったというのだ。その正直さにちょっと驚く。さて、明日のベルベラ行きの準備もできたところで、ぶらぶらとハルゲイサの街を見て回ろう。


ハルゲイサのストリート・マーケット

ハルゲイサを歩いていると、よく声をかけられる。アフリカの他の国と同様、中国人と間違われることが多い。「ジャーナリスト」かと聞かれることも1度ならずあった。声をかけてきた1人、Mと知り合いになり、一緒にお茶を飲む。彼はソマリア人だが、国籍はエチオピア。アジスアベバの大学を卒業している。ただし、エチオピアの公用語であるアムハラ語はまったくできない。エチオピア国民であることを示す身分証明書を見せ、「何が書いてあるか自分でもわからない」と言っていた。大学の授業はすべて英語だったらしい。Mはハルゲイサをいろいろ案内してくれた。

エチオピア国籍のソマリア人M

私がソマリランドを訪れた理由の1つは音楽だ。ソマリランドとソマリアの音楽に興味を持ったのはいつごろだろうか。Ubax Dahir、Nimco Yaasin、Maryan Mursalといった女性歌手をよく聞いていた。

したがってMにCDショップに案内してもらったのは自然の成り行きだった。小さな店舗で販売されているのはもっぱらテープとCD-Rだった。CDやDVDを商業ベースで制作・販売するほどに音楽産業が発展していないのだろう。若い店主は私にUSBメモリを持っているかと聞く。ちょうど持ち合わせていた。容量は忘れたが、5年前のことだから1GB未満だっただろう。店主は私とMをショップの奥の事務所に案内し、パソコンでCD-Rを再生して、私の好みを曲をUSBメモリにコピーした。USBメモリがいっぱいになったところで、10ドルを支払った。他の国なら完全に違法だが、そもそもちゃんとした製品のCDやDVDがないソマリランドでは致し方がない。

ここでのやりとりは最初Mがソマリア語から英語に通訳してくれた。しかし、途中で店主が私に「フランス語はしゃべれるか」と問う。「Oui」と答え、以降店主と私の間で直接にやりとりした。あとでMに聞くと、「たぶんジブチから来たのだろう」とのこと。フランスの旧植民地であるジブチの人口の半数はソマリア人だ。ちなみに歌手のNimco Yaasinもジブチ出身らしい。

私がアップしたものではないが、Nimco Yaasiinの動画を1つ紹介しておこう。


Mとは夕食の前に別れた。彼とは今もときたまメールを交換している。帰国後まもなくして発生した東日本大震災時には、私の身の安全を尋ねるメールが来た。

宿に戻ると、テラスでデンマーク人を見かけた。物書きらしい。ハルゲイサにはすでに1週間以上滞在しているという。

2015年11月23日月曜日

ソマリランド2011 ハルゲイサ1

2011年の冬、つまり今から5年前に、未承認国家ソマリランドを旅行した。もう記憶もおぼろげになっているが、すべて忘却してしまう前に、思い出す限りをここに記録しておこう。日記どころかメモもとっていないから、金額や時間等の数字については間違いがあるかもしれない。

関空→エチオピア→ソマリランド→エチオピア→関空という行程を12日間でこなそうという旅。エチオピアの首都、アジスアベバでのソマリランド・ビザの取得に少なくとも1日、アジスアベバからソマリランドの首都のハルゲイサへのバス移動に2日、その帰路に同じく2日かかる。時間に余裕のある旅ではない。1日も無駄にせずに動かなければならない。

2011年1月25日にアジスアベバでソマリランドへのビザを取得し、翌26日にバスで10時間以上かけてエチオピア東部のハラルに移動して1泊。27日の早朝にハラルからミニバスでまずジジガがまで移動。ジジガでバスを乗り換えてエチオピアとソマリランドの国境に着いた。バスを降りると、同乗していた老人が何も言わずにエチオピアのイミグレの建物まで案内してくれた。エチオピアの出国手続きは10分もかからなかった。ソマリランドから再度アジスアベバに戻ってくるつもりだから、もちろんエチオピアのビザはマルチエントリーで取得してある。


エチオピアのイミグレを出て、ソマリランドのイミグレまで歩く。200メートルぐらいの距離だっただろうか。ソマリランドの入国手続きも問題なくすぐに終わった。係官が私のパスポートを見て、「エリトリアに行ったことがあるのか」と聞いてきたのを覚えている。当時(今でもか)、エリトリアはソマリアで戦っているアルカイダ系のアル・シャバブを支援しているといわれていた。イデオロギーや宗教上の親近性からではない。「敵」(エリトリアの敵はエチオピア)の「敵」(エチオピアの敵はアル・シャバブ)は「味方」という論理からだ。ソマリランドもアル・シャバブらしき勢力に爆弾を仕掛けられて数多くの死傷者を出したことがある。当の係官がエリトリアに対してどのような感情を持っているかは伺うすべもなかったが、入国にはなんの支障もなかった。

出入国事務所を出ると、首都ハルゲイサに向かう乗り合いタクシーが何台か停まっていた。ハルゲイサまではエチオピアの通貨で120ブル。当時のレートで6ドルだった。あとで知ることになるが、ソマリランド国内での長距離の乗り合いタクシーは6ドルが相場みたいだった。といってもこれは外国人価格で、地元民はもっと安いのかもしれない。ハルゲイサに着くまで何回かパスポートのチェックがあった。

乗り合いタクシーは私が目指すHadhwanaagホテルまで乗り付けてくれた。前もってネットで目星を付けていたホテルだ。シャワー・トイレ、衛星テレビ付きで1泊8ドル。ノートパソコンを持参していなかったため、Wi-fiの有無についてはわからない。今から5年前のことだから、おそらくWi-fiは飛んでいなかっただろう。ホテルの敷地内には両替所やレストランが併設されていた。さっそく5ドルほど両替して、レストランでかなり遅めの昼食をとる。5ドルの両替でも、かなりの札束になる。財布に収めることは不可能。

ソマリランドでは現地通貨のシリングと米国ドルのどちらも同等に流通している。ドルで支払ってシリングでお釣りをもらうといった具合だ。カンボジアでリエルとドルの両方が支払い手段となっているのに似ている。

ホテルはハルゲイサの中心にほど近い。ホテルを出て5分も歩くと、1991年の内戦時に撃墜されたミグ戦闘機のモニュメントにたどり着く。ハルゲイサ随一の(唯一の?)観光スポットだ。

ミグ戦闘機のモニュメント

モニュメントの台座に描かれている生々しい絵

メインの道路に沿って歩いて行くと、道沿いにいろいろなものが売られている。さながらストリート・マーケットといったところ。中古の日本車が多い。ハルゲイサを走る車の半数以上を占めるのではなかろうか。ドバイ経由で入ってくるのだろう。

ハルゲイサ1

ハルゲイサ2

ハルゲイサ3

ハルゲイサ4

夕食は別のホテルに併設されているレストランでとった。スパゲッティ付きのビーフ。何十枚もの500シリング札で支払った。

ホテルの衛星テレビではBBCのニュースを見ることができた。